🤖 AI Summary
この記事は、栗栖良紀先生追悼のための投稿で、富士高校かるた部とその顧問である栗栖先生との関係性について詳しく描写しています。以下に主なポイントをまとめます:
1. 栗栖先生は91歳で逝去しました。
2. 先生は知力・体力・情熱が非常に豊かだった人物で、競技かるた界において長年にわたり献身的に尽力された方です。
3. 1968年(昭和43年)に第1回全国かるた静岡大会参加を機に富士高校へ転勤し、かるた部の顧問となりました。
4. 富士高かるた部は、競技かるたと出会った頃から約50年にわたり高い成績を上げてきました。先生自身も選手として参加されていました。
5. 先生は部員たちと一緒に練習し、試合に出るなどして共に成長してきた実践的な顧問でした。
6. 競技かるたの試合だけでなく、野球などの運動大会にも参加され、部員たちと共に努力を重ねていました。
7. 高校生にとって「弱い」とか「負ける」ことは言わずに、励ましと誇りを持って接しました。
8. 過去の先輩選手の試合や体験を具体的に話して部員たちに伝えていました。
9. 練習の内容は競技かるただけではなく、トランプなども楽しみにしていました。
10. 高校生が指導者として受け入れられる環境を作り出し、部活動を通じて多くのことを学ばせた。
これらの特徴から、栗栖先生は部員たちにとって非常に魅力的で尊敬される存在であり、その教えや態度は今でも高く評価されています。彼の経験と知識が後進たちに豊かに伝わったことは間違いありません。
一報が入ったのは、昨日(5月6日)の午後のことだった。
旧知のお嬢様、栗栖先生(娘さんの方)から電話が入った。父上様(栗栖先生)が永眠されたとのことだった。かるた関係者の中で、どなたに連絡していいかわからなかったので、先生(ワタシのこと)にまずは連絡しましたのとこと。いの一番に電話をいただいて、とても嬉しかった。電話で聞くことはなかったがあとで確認したところ91歳だという。長生きしてくれてどうもありがとうございました。
先生は、知力も体力も情熱も人一倍パワフルな方だった。競技かるた関連の大会や会合に数年前から欠席されていたから、私たち関係者は、「相当体調がお悪いのだろう」と察していた。かるた大会のことなどで、頻繁に電話連絡(もうっぱら家の電話)していた私も、お体が悪いと聞いて以来連絡をとっていなかった。そういえば、栗栖先生が国から勲章を頂いた時に無理を言って会合に出席してもらった時以来、お会いしていない。
今調べたら令和5年(2023年)のことだった。

(これがその時のお写真)
先生との出会いは、昭和54年の4月私が富士高校に入学してかるた部に入部した時だった。昭和54年というのは、富士高校が甲子園に初出場した年でもあるし、富士高校かるた部が第一回全国高等学校小倉百人一首かるた大会で優勝した年だから、AIに聞けば直ぐに教えてくれる。
私は、その富士高かるた部で12代目である。富士高の活動拠点である生活館には武道の道場でよく見かける歴代の部員たちの名札が初代から順番に飾られていて(今でも!!!!)、過去の先輩のお名前がよくわかる。最初の年は初代・2代・3代が一度に集ったので、私が入学したした時はだいたい冨士高かるた部創部から10年がたっていたころだ。この時、第一回の高校の全国選手権の参加校は僅か8校だった(信じられないことでしょうがホントの話)。つまり、当時、それほど高校のかるた部というのは珍しい存在だった。
今、手元にある資料で、栗栖良紀先生が競技かるたと出会った時のことが書かれているものがある。

平成9年の、元静岡県かるた協会会長の勝又芳雄氏の手による『全国かるた静岡大会 三十年の記録』という小冊子で、それを読むと、栗栖先生が本格的に競技かるたを始めたきっかけがこの第一回全国かるた静岡大会に選手として参加したことと回想しておられる。この第一回全国かるた静岡大会は昭和43年2月22日に開催されていて、つまりは、栗栖先生が競技かるたを始めた頃がまさしく富士高校のかるた同好会が出来た時だった。この小冊子の回想録によると、第一回の静岡大会に参加した直後、当時の勤務校市立沼津高校で同好会を組織して、次の年度代わりに同好会から部に昇格が決まったとたんに富士高校への転勤となったのがことの顛末らしい。
この全国かるた静岡大会は、今年で60回目を迎えることになる(第一回と同じ2月の第3週)。高校選手権の方は今年で48回目だ。
栗栖先生!!!!!! 静岡大会も、もう還暦です。高校選手権も50回になろうとしています。約半世紀にわたってこの競技かるた界(特に高校かるた界)の発展に尽くしていただきました。本当にありがとうございました!!!!!!
これから先、栗栖先生の指導者としての実績や全日本かるた協会での功績などをつらつら書き続けることはしない。栗栖先生が競技かるたを始めた頃のことだけ詳しく書いたのには理由があり、栗栖先生は部活動の顧問であり監督であったけれど、高校生にとってはよき対戦相手であったことを記しておきたかった。
栗栖先生がA級選手になられた頃は、富士高の部員達もB級からA級にあがるときと重なっていて、先生ご自身も選手として大会に出られていた。私たち部員は、指導を受けているという実感があまりなく、“時々、栗栖先生と試合をする”という間柄だった。競技かるたの試合だけではない。大会に出るためには延々3時間くらい東海道線の鈍行列車に乗っていったのだが(旅費を浮かせるため)、その列車の中では、それこそ本気にトランプゲームを一緒になってやっていた(今の高校教員でこれが出来る者はいないでしょう。できる環境にもないけど)。競技かるたやトランプだけでもない。富士高校で年に一度行われる部活動対抗球技大会では、栗栖先生もレギュラーとしてバレーボールの試合に出場していた。運動能力では敵わず、野球部との試合では勿論負けて負けてしまったけれど、私たち部員(男女だよ)と栗栖先生は、本気で野球部に立ち向かっていった。もちろん、先生が出場することが許されていた職域学生かるた大会では、栗栖先生も選手の一角として出場していた。
そう栗栖先生の、一番の凄いところは、長い間、高校生達と一緒に練習し、一緒に試合にでて、一緒に団体戦を戦っていたことだ。(大人になってからは、一緒に酒をのみ、一緒に麻雀をやった)
自分が指導者となって、大会で生徒たちを勝たせることがどれだけ苦しく大変なことなのかを実感していた頃(約30年前)、運動競技の世界では、メンタルトレーニングなるものが流行していた。
今となっては当たり前に感じることだけれど、メンタルトレーニングの実践によって導入されたことは数多い。一番のいい例が、優勝した選手のインタビューでの言葉だ。
「まずは、ここまで支えてくれた家族やチームのみんなにお礼を言いたいと思います。・・・・」と必ず言うようになっている。これは、メンタルトレーニング業界では、「支援者に感謝」と表す。僕の記憶では、このようなフレーズを口にする競技者は1980年代まではいなかった。このような感じでメンタルトレーニングを中途半端ながらもかじってみると、栗栖先生の教えが、まさしく、メンタルトレーニング理論そのままであったことを思い知らされた。では、少し披露する。
例えば、
①栗栖先生は、自分の教え子に対して、“弱い”とか“負ける”という単語を一度も口にしなかった。
重要な試合などで、強敵とあたることもあったけれど、
「ちょっと勝つにはかったるいかもしれんが、やってみなければわかない」と送り出してくれたし、負けて帰ってきた時も、「今のお前には荷が重かったかもしれん」と励ましてくれた(“今の”が重要)。
②栗栖先生は、過去の試合のことを上手に話してくれた。
高校生は、あっという間の3年間を過ごすだけだだが、部活動の後で、栗栖先生は、過去の先輩たちの戦いぶりを細かく教えてくれた(話が長いので有名だけれど)。したがって、来栖先生に教わったかるた部の部員たちは、競技経験は浅くとも、先輩たちの体験を身に着けて戦うことが出来ていた。来栖先生は、かるた業界の中で誰よりも記録を大切にする人だった。
③栗栖先生の独特の揉め方があった。
競技かるたの世界は基本的にセルフジャッジなので、試合中どちらが取ったかわからない場合は、軽く口論となる。普通だと、“私が取った” “いや私が取った”で揉めることになるのだが、栗栖先生の口論は一味違う。
「お互いにそれほど早くない取り方だったけれど・・・・・」という語り方から必ず始まる。選手たちは普通は興奮して話してしまうのだけれど、このよう評されてしまうと、そんなムキになって主張する場面ではないなあ、と思ってしまうものだ。
かるた競技は、暗記力が大きく左右する競技である。メンタルトレーニングの世界では、暗記の3要素は①論理②イメージ③感情だとされている。栗栖先生が生徒に教える(一緒になってかるたを競技する)時、
①栗栖先生は理屈っぽい(論理的)。
②栗栖先生は昔の試合を語り続ける(生徒は自然とイメージを膨らませている)。
③栗栖先生は怒ったことがない(マイナスの感情を持たせない)。そうだ、本当に栗栖先生には叱られたことがないなあ。
おそらく、栗栖先生は、これらのことが本能的として身についていた方だったと思われる。
本当に理想的な指導者だった。
そして、これらの指導は、他のことを一切手を抜かないでやり遂げていったのだ。
①全国大会の優勝経験がある長泉高校かるた部を創設したのは栗栖先生だが、長泉高校そのものを創設したのも栗栖先生だった(設立委員の一人)。
②その当時、沼津東高校では教務課長という重職に就いていたが、その中で、沼津東高校競技かるた部を作り、長泉高校の設立にも関わっていた。(教員になってみるとこれがいかに大変か! 良くわかる)。沼津東高かるた部を作るときも、富士高からの転勤一年目でそんな我儘がゆるされるはずもなく、一時は吹奏楽の顧問もしておられた。
③こんなに忙しいのにも関わらず、競技かるた界の全選手の出場記録(当然勝ち負けを含めた)をクリスカードと称してデータ化していた。
日本海軍の最高傑作として今も尊敬されている山本五十六提督の言葉に、
「やってみせ、言って聞かせて、 させてみせ、 ほめてやらねば、人は動かじ。」
という名言がある。
栗栖先生は、指導者として、もしくはリーダーとして、意識的に実践したわけではないでしょう。でも、先生の生き方そのものが、
「やってみせ、言って聞かせて、 させてみせ、 ほめてやらねば、人は動かじ。」
だったように改めて感心します。
私は、静岡県内のかるた関係の仕事に携わっていた時、
「すべては、栗栖先生に聞いてみないとわからない」と音を上げたことが何度もあります。今の言葉でいえば、情報のポータルサイトでしたり、時にはAIしたいな人でした。きっと、同じことが高校の古典教育にもあったかもしれません。その時は、まで、自分で「やってみせ」ている段階だったのですね。
栗栖先生が、競技かるたと出会って60年が経ち、ちょうど暦が一周しました。
その間、
先生が「競技かるた」という名の種は、それぞれに育ち大きな樹木となり、今や、それこそ一つの森を作るまでになりました。
これからは、天から上から、時には大きな光を当てて、時にはふんだんに雨を降らせて、この森の木々をもっともっと大きくしてください。
嗚呼、合掌