家康の日本経済への功績で、必ず指摘されるのは人口100万人の世界一の大都市「花のお江戸」の礎を築いたことだ。
「花のお江戸」の発展形がsuper city Tokyoだから、東京人は家康様に大いに感謝してもらいたい。
大江戸の造営では家康家臣団が腕を振るったが、意外にも知られてないのが、謀臣本田正信の功績だ。
彼は家康の謀略のほとんどを担当した腹心で、家康が狸オヤジと言われる負のイメ-ジは本田正信が作り上げたものだ。
正信は悪知恵も働くが、都市計画の立案にも知恵を存分に発揮した。
有能な官僚として、陰と陽の両面で家康に貢献した。
当時、ロンドンやパリをしのぐ世界一の大都市になった理由については、はっきりした分析が示されていない。
特に産業革命によって世界の工場となったロンドンよりも、人口で10万人から20万人も多かった。
まだ工場制手工業が関の山だった江戸とその近郊が、なぜロンドン以上の大都市になったのか、私見を書くと
①まず消費中心の都市として発展した。
江戸の本体は大名屋敷の集積体であり、大名の家族や大家臣団が江戸に居住することで、日常生活上の様々な消費が生まれた。
日常生活に必要な商品は大阪から海路で運び込まれた。
それを購入するために費用は、大阪の蔵屋敷の蔵前商人と江戸の札差が、年貢を換金することで提供してくれた。
年に一度、どっと大金が大名の懐に転がりこむのだから、たまらない。
浪費しない方が不思議だ。
②大名屋敷や大店の店舗、日本橋の蔵などを建設するために、多数の大工職人が江戸に集められた。
大名と家臣団は日用必需品だけでなく、呉服や調度品、装飾品などのぜいたく品も購入したのでそれを作る職人も流入してきた。
男女の比率では武士が圧倒的に多かったので、男子人口が極端に高かった。
男子専用の娯楽施設や盛り場も発展した。
江戸が初めから富裕層のための都市として設計されたので、必然的に巨大な消費が突如として降って湧いてきて、それを提供する人口も急増し、巨大都市化したと推測する。
花のお江戸は、お金を使うことが運命づけられた都市だった。
家康がため込んだ金銀も、江戸城の大奥が派手に使いまくってくれたおかげで、江戸市中にも拡散していった。
金は使わないと全く意味がない。
金の価値は、使うことにあり、使うことで初めてその最重要な機能が発揮される。
ため込んでいてはまさに「死に金」となり無意味だが、使うことで、しかも派手に使いまくることで、需要が需要を呼び、その需要を満たすための製造業、サービス業の人口が拡大していったのが、世界最大の100万都市誕生の大きな要因だったと考えられる。
江戸の人口規模については諸説が多過ぎて特定できないが、幕末期(慶応年間)の江戸とその周辺部の総人口は戸籍=宗門改め人別長(寺社保管台帳)によれば町民が54万人で、大名や武士、その奉公人、その他をほぼ同数とみなして108万人程度とする説が有力だ。
だが、驚くことに明治維新直後の東京の人口は、それから20万人ほど急減して80万人台になっている。
いったい何があったのか?
これも徳川家と関係がある。