ノーマルビュー

Received — 2024年4月11日 tommy先生の「世相を斬る」

還暦老人ブログ中断顛末(2)

著者: tommyjhon
2024年4月11日 06:20
全国の毒舌ファンの皆様 おはようございます。Tommyセンセです。

 ということで、昨日再任用ハーフ教員としての初授業。めちゃめちゃ緊張した。今日もそんな感じで2時間をこなさなければいけない。ただし、役職がなく単純に授業だけという稼業はかなり楽ちんだ。今、授業以外の雑務で苦しんでいる先生方、はやく再任用ハーフになりなさい!!!!!


 さてっと、好評連載中の「還暦老人日記」の続き。


 30代後半~定年まで、ずっとブログ生活を続けてきたのだが、
還暦老人のブログ中断顛末(その1)そしてお土産。 : tommy先生の「世相を斬る」 (exblog.jp)

前回の最後の方で紹介したように、
2010年9月~2013年9月まで、ワタシはブログを中断していた。もう10年も経ったことなので、初めてその顛末を記すことにする。


 それはワタシの家族、中でも次男のことである。
我が家の次男は、長男と違い勉強大嫌いなガキとしてすくすく育った。スポーツ好きで運動能力も高く、長男がはじめていたバドミントンでも、ちょこちょこっと練習しただけなのに県大会で入賞してしまうような小器用な子どもだった。ただし、青年として成長していくにつれて父親の遺伝子の影響をうけて基礎的な身体能力(走る、跳ぶ、等の筋肉量)に欠けるていることが露呈し、選手としては苦しむことになるのだが、年少期はそれが目立たず、抜群の球技センスだけが光っていた。
 特に野球センスは抜群に秀でていた。例えば、小学3年生か4年生の頃、少年野球でショートを守っていたある時、誰にも指示されるわけでもなく、試合中に、年下のセカンド(2塁手)に細かく指示を出していた。後で何を指示したのか聞いてみると、次男坊は「少年野球の2塁ベースの前には、足で土をならすようなふりをして、沢山の砂を集めておくんだよ、そうすれば、盗塁された時やスライディングされた時に、その沢山の砂に邪魔されてランナーの足がベースに届いていない時があるんだ。その時にタッチすればアウトになるから、セカンド(2塁手)は、時々、足で砂を集めておくんだよ」と後輩に教えていたらしい。
 この野球センスは親としてもビックリだ。こういう性格の悪さは、完全に父親譲りである。


 少年野球で少し自信のついた親子は、勇気を出して中学時代の彼(次男坊)を、富士川河川敷を本拠地とするリトルシニアのチームに預けることを決意する。リトルシニアとは中学生時代にもかかわらずに硬式野球を行う中体連とは違う独立リーグのことである。


 高校の運動部業界では、「所詮、中体連」という言葉が存在していて、本気に高校の部活動を強くしようとするならば、中学校単位で練習をしている中学の部活などを当てにしてはいけない。小学校から中学校の時代には、「クラブチーム」で活動を続けている選手でなければ使いものにならないのだ。今では、卓球やバレーボールなども、「所詮、中体連」となっているらしい。前任校の伊豆中央高校の男子バレーボール部は、中学生の地元クラブチームといつも練習試合をしている。なかなか勝てないそうだ。その伊豆地方の中学クラブバレーボールチームの有力選手は、浜松にある聖霊なんとかという学校に進学していく。
日本人でも世界的に活躍するようになったサッカーや野球などは、いち早く、この中学クラブで育成するシステムを導入していて、さきほどの「所詮、中体連」という言葉は、前々任校の清水東サッカー部で初めて聞いた言葉である。例えば、「中体連県大会出場、レギュラーFW」などという言葉はすでに「それほど上手くない選手の典型」となっている。


 野球でのリトルシニアは硬式ボールで行うのでそれだけでも上手くなるが、大会を競い合うのが「関東連盟」であるから、相手も神奈川や東京などの強豪チームである。相手がそれだけ強いので、指導者も選手も父兄も異常に熱心である。ほとんどすべての親が「甲子園に出場出来るチームに入る」ことを希望してリトルシニアに入団させている。我が次男坊と同級生には、今パドレスの松井裕樹がおり、リトルシニア時代(横浜緑東)から知られていた。


 このリトルシニア時代、息子は、キャプテンキャチャー4番として試合にでていた。関東大会で少し活躍したこともあり、強豪校から声がかかるようにはなった。彼らリトルシニア(今ではボーイズリーグという連盟も存在している。下のリンク先は、静岡のアマチュア野球界を熱心に発信しているサイト。管理者さんとは知り合いになった。)静岡野球スカウティングレポート (cocolog-shizuoka.com) の選手達は5月~6月の試合が終わると真剣に進学先を探すことになるのだ。


 さて、ワタシとしてはかなり悩むことになる。家族でもたびたび、進路(どこの高校に進学するか?)に関しては考えた。多くの中学生は2月~3月の高校入試で進路が決まるが、中学スポーツで活躍した選手は6月~8月にすでに決まっているのである。そして、とにもかくにも、彼が選手として使えるかどうか?高校野球で通用するかどうかを知りたいと思い、監督との面談で「いろいろな高校からの評価を聞きたい」と話した。
 「ならば、少し声をかけてみよう」と答えてくれて、関東地区の某野球の私立強豪校に声をかけてくれた。ワタシ達家族としては、県内の近隣校ならば毎回応援にいけるし、それほど心配も無い。しかし、親が両方とも高校の教員という立場なので近くの高校に子どもがいるとなるとそれなりに気を遣う。監督さんには、県外の私立でもいいです、とは言っておいてあった。


 中学野球の監督の大きな仕事一つは、高校野球の監督さんとのルートを太くしておくことである。「甲子園に行かせたい」と思う欲深い親達の要望に答えきれなければ中学野球の監督にはなれない。もちろん、相手となる高校野球側も同じことだ。ここには、文科省が司る学校教育や静岡県教育委員会が仕切る高校教育とは、別の力学が存在する(サッカーだって同じ)。我がリトルシニアの監督は、かなりの名監督であって、高校との繋がりも太かった。監督は約束通りのことをしてくれて、リトルシニア3年の夏、ある日には、息子の練習(つまり能力資質)を見に来てくれるとのことだった。 


 しかし、その日、約束してくれた某強豪校の監督は現れなかった。(息子には教えていない)ワタシ達夫婦と監督は不思議だと話し、夫婦は、さらに不安になった。
数日後、原因が判明した。それは、常識では考えられない出来事だった。そして、こういう(様々な面で)世界が、世の中には存在するのだということを、(世間知らずの)ワタシは痛感するのだった。


 その事情とは、次のような状況であった。その某強豪校の監督に、匿名の電話がかかってきたという。その匿名電話の主は、「〇〇君の親は、県下でも有名なモンスターペアレントで、あることないことをネット上に書き込みしている親で、世間から目をつけられている。こんな親を持つ子どもを入学させない方がいい」と言ったという。そして、このような電話が、一つの高校だけではないことも監督さんのリサーチで判明した。
 この事実は、息子が某高校へ入学後、またもや証明されることになる。ワタシの勤務校のとある体育教師の先輩先生が、こっそりと明かしてくれた。「先生(ワタシのこと)、実は某高校の監督から親(ワタシののこと)の様子を教えてくれ、という電話がかかってきたよ」「もちろん、そんなこと(モンスターペアレント)は絶対にないと言っておいたけど」



 そして、リトルシニアを率いる監督さんとじっくり話し込み、今後、どうなるか見当がつかないのでまずは証拠となるブログを辞めよう、という結論となり、息子が高校野球を辞めるまでの3年間はブログを中断するという約束をした。だから、ブログの中断が9月なのである。
この匿名電話の主は、いまだにわからない。ただ、野球業界(特に父兄の間で)で、よく噂されていた2ちゃんねる(古い世代は知っている)風の、誹謗中傷、事実無根の噂話が荒れ狂う業界であることが、本当によくわかった。
 確かにワタシはある意味でモンスターペアレントではあるが、それはペアレントとしてではなく、国民としてである。政治の世界に文句をいうことはするが、アマチュア野球界を悪く言ったことはない。百人一首かるた競技の世界は、よく書き残していたが、(素人である)野球業界の話はブログ上していない。


 この匿名電話の主は、何が目的だったのでしょう? 子どもの進路を阻むことなのでしょうか、それとも、ワタシを黙らせることなのでしょうか?その匿名電話の内容からすると、ワタシの極々身近にいる方だと思われますが、態度や素振りで見破ることはとうとう出来ませんでした。なんともおそろしい世界に知らず知らずに入っていってしまった。


 なので、ワタシのブログが再開されるのは、子どもが高校3年生となり、夏の県大会で負けて甲子園の道がなくなってからなのです。だから、2013年8月。
実は、この「高校球児の親」として過ごした3年間は、高校野球父兄として、他の業界では到底味わうことのない喜怒哀楽を経験したのではありますが、それらはどこにも書くことができませんでした。


 前回、富士高時代の職歴を詳しく話しましたが、この甲子園を目指している息子が高校3年生となる年は、どうしても8月を空けておきたかったのです。その為には、全国高等学校文化連盟小倉百人一首専門部事務局長を辞する必要がある、その為には百人一首部顧問を辞する必要がある、その為には富士高を去る必要がある、との結論になるのでした。ちょうどその時は、富士高最後の要職、学年主任としての仕事も大団円を迎える時でもありました。


次は、富士高時代の担任&学年主任としての話になります。
Received — 2024年4月10日 tommy先生の「世相を斬る」

還暦老人のブログ中断顛末(その1)そしてお土産。

著者: tommyjhon
2024年4月10日 05:42
全国の毒舌ファンの皆様 おはようございます。Tommyセンセです。

 ということで、本日から新天地での初授業。富士高、清水東、伊豆中央と進学中心高校から移ってのちょっと毛色の違う高校での初めての授業なので少し緊張している。とはいっても、最初の授業だから授業という授業をする気にもならず、昨日はかなり時間をかけてパワポのスライドを作った。「若者よ、もっとSNSを使おう」というテーマで自己紹介をする予定だ。


 では、好評連載企画「還暦老人の人生を語る」は、いよいよブログ開設とブログ中断の顛末に関して。
ちなみに、前段のSNSに関してはFacebook日本版のスタートが2008年、Twitterの大流行が2010年(開設は2006年)らしいので、それよりも以前の話になる。HPビルダーでコツコツと日記や学校情報を発信していたワタシは2006年に、もっと簡単で軽く情報発信ができる、「ブログ」への移行をそそのかされた。2006年の8月、青森県でのことである。そそのかしたのは、神奈川県のかるた競技関係者である永吉先生というお方、単純に「外山先生のスタイルならば、ブログの方が効率的だよ」という建設的なアドバイスであって、永吉先生から悪の道に誘われたわけではない。
2005.8.3開設 : tommy先生の「世相を斬る」 (exblog.jp)

↓が、エキサイトブログ初の記事らしい記事。
青森点描 : tommy先生の「世相を斬る」 (exblog.jp)



 なぜ、青森なのか? 当時、ワタシは「全国高等学校文化連盟小倉百人一首専門部事務局長」という仕事をしていた。この仕事、6月~8月にかけては殺人的に忙しく、今から考えると、よく体を壊すことなく出来たと我ながら感心する。
全国高等学校総合文化祭開催実績及び予定 | 文化庁 (bunka.go.jp)

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これが、ワタシが関わった、全国高等学校総合文化祭の過去記録。
初めて、“小倉百人一首競技かるた部門”が開催されたのが、第17回大会の埼玉県(平成5年8月4日〜8月8日)、静岡県での開催が平成12年、8月5日〜8月9日。静岡での通称が、「2000高総文」だったので、2000年が平成12年となるのだ。

そして、平成14年(2002年)の神奈川大会を区切りとして、それまで事務局長をしていた阿久津先生という方が事務局長を勇退することになり、それまで阿久津先生に文句ばかり言ってきた静岡県に次の事務局長が任されることになった。
もう数回前の記事でカミングアウトしてのとおり、ワタシはADHD系の人間なので、じっとしていることが大の苦手なので、(事務的な能力がそれほど高くないと自覚しているにもかかわらず)なんとなく引き受けるような雰囲気になってしまった。
それから富士高校を去る平成24年度(2012年)まで、ずっとこの仕事を続けることになる。


 あのね、普通の進学高で理数科(特進コース気味の特別クラス)の担任をし、その後、学年主任をし、その間ずっと(運動部みたいな)百人一首部の顧問をし続けた期間、ずっと全国の事務局長だったのですよ。凄い働きぶりですよね。ここは長い教員人生の中で一番仕事が充実させられた時だった。(ワタシはいつでも好きで、やりたくてなったわけではない)、(愛する)母校富士高校を転勤した理由の一つは、この殺人的忙しさから逃げたいという思いだ。平成25年度の夏は絶対にもっと忙しくなることがわかっていた。(後で種明かし)


 これだけ重要な仕事をやりきると、一般的には出世する。事実、ワタシは(静岡県の中堅有望教員が選ばれて招集される)マネジメント研修なる事業にも呼ばれたことがある。しかし、出世に通ずる道(出世街道)に乗るこはなかった。その理由の一つが、これだ。このSNSにどっぷり浸かり続けたワタシは、普通の人(普通の教員)よりも、ホントに充実した日々を過ごしてきた。特に、政治的な見聞はSNSがなければ実現しなかった。しかし、その分、かなり県教委からのお叱りをもらった。


 読者の中には、この顛末を楽しみにしているかたが多いと思われる。しかし改めて振り返ると、何が原因でお叱りをうけたのかどうしても全部を思い出さない。お叱りを受けた頻度は、2~3年に1回くらいだと思う。なぜ、このように考えるかといえば、HP運営をはじめブログに移行しながら続けた24年間で、ほぼ全部の校長先生から説諭(厳重注意のうえ自粛を諭されること)をうけた記憶があるからだ。だいたい校長は2~3年に一度のペースで入れ替わる。
初めてのお叱りは、ある年の富士宮市長選挙で、露骨にある候補者を応援したことである。この方は高校時代の1年先輩で(当時は)若手の青年実業家(当時38歳)だった。この露骨な応援は、“若くても勇気を出してチャレンジする青年”を紹介したくて記事にしたのだが、当然の如く、対立陣営側から抗議がきた。その時は、HP上だったので、校長先生から、「HP上でも謝罪文を出せ」といわれ、謝罪の文章を書いた記憶がある。しかし、その謝罪文を書いたと同時に、HPの壁紙(この表現は今の世代ではわからないだろう)を反省ザルにしたので、また怒られた。


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(写真は、当時流行った反省ザル。「反省だけならサルでもできる」の語源となったジロー君)
その後も、政治的な件では相当やられた。ブログによく登場していた、長尾たかし(当時、大阪14区民主党候補者)氏に関する文章でも叱られた記憶がある。その時は、いくら衆議院選挙真っ最中でも選挙区が違う(ワタシは静岡5区、長尾氏は大阪)ならば、応援はOKだと勘違いしていたが、法律によると選挙区が離れていても選挙期間中は応援活動を教員がしてはいけないそうだ。このことも、HPを運営していて初めて判った事実である。
 そして、校長先生からのお叱りではなく、直接、静岡県教育委員会に召喚され半日にわたって御説教を受けたこともあった。これが巷で一番有名な敬愛する〇〇先生転勤事件なのだが、この事件は、プライバシーとその人物の尊厳に関わることなので、少し色合いが違う。でも、ここではまだ書けない(まだ、現役で活躍しておられるから)。



 ところがだ、このブログが、2010年9月に、どうしても更新無期限延期にならざるをえない状況になってしまう。
無期限更新延期 : tommy先生の「世相を斬る」 (exblog.jp)

この無期限延期は、2011年になっても続け、
今年も我慢します : tommy先生の「世相を斬る」 (exblog.jp)

2013年もブログ更新せず、
2013・年頭所感 : tommy先生の「世相を斬る」 (exblog.jp)

とうとう、3年間、ブログ人生を中断することになる。


 このやむを得ない中断は、政治的な活動でもなければ、プライバシーの侵害でもなければ、犯罪に関することでもなかったのだ。(教員は続けているので、犯罪でははいのは当たり前だけれど)
次回をお楽しみに・・・・・・・


そして面白いお土産動画を一つ。
ワタシが敬愛する歌手(声楽家)、倉藤理大さんの「せをはやみ」 かるた関係者必見。
Received — 2024年4月7日 tommy先生の「世相を斬る」

還暦老人が超政治的先生になる

著者: tommyjhon
2024年4月7日 04:55
 全国の毒舌ファンの皆さま、おはようございます。Tommyセンセです。

 ということで前回内容の続き。
ワタシが富士高に赴任したのが2001年。ネット稼業を始めたのもその年。そして、政治の世界に誘われた長尾たかし氏との出会いが2002年。
長尾たかし氏のウィッキを見ながらうろ覚えであったのを検証しながら書いている。
長尾たかし氏が、勤務先の大手生保を辞めて民主党大阪14区の支部長(つまり、大阪14区で立候補するということ)就任を、山梨県大泉村の加藤幸弘氏の別荘で宣言したのが2002年の8月。


 この長尾氏のHPや加藤幸弘氏の書き込みが、超政治的政治経済教員となるきっかけである。
そうして、HPを運営しながら、現実の政治をマスコミなどを介在しないナマの形で垣間見ることになった。


 そう言えば今、高等学校(高校)の学習でおいての大きなテーマが、「主体的学習」である。昨日、新赴任校の清水西高校でも入学式があったが、校長祝辞の中にも一番最初のテーマとして、主体的学習という言葉がでてきた。しかし、主体的に学ぶってことが高校生にどれくらい伝わるか?これにはかなり疑問が残る。ワタシは、主体的というのを副島隆彦先生の著作から学んだ。それをポジティズムという。ポジティズムを調べると、以下のようによくわからない単語が並んでいる。
実証主義(じっしょうしゅぎ)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)

これを副島先生は、「自分の目で見て、耳で聞いて、足を運んで学んだこと以外を信用しない」と定義しておられる。このポジティズムな学習を、ワタシは政治家になるという長尾たかし氏の元で体験することができた。


 そうしているうちに、もっと凄いことになる。
長尾たかし氏から突然のお誘いがあった。2006年の夏休みのことである。
長尾氏は当時、一新会入りをしていた。いわゆる小沢グループ(もちろん小沢一郎先生)である。
小沢グループ - Wikipedia

ここに以下のような記載がある。
<貼り付け>
2003年(平成15年)の民由合併によって解散した旧自由党出身の議員を指していた。当初は政党内政党は避けようという観点からほとんど会合なども行われなかった。その後、2004年(平成16年)6月に当時当選1回〜2回の議員を対象とした小沢主宰の勉強会一新会(いっしんかい)が発足し、これ以降徐々に会合等を開くようになる。この一新会に加え、2005年(平成17年)秋、第44回衆議院議員総選挙の惨敗により、新たに発足した落選者や候補者を対象とした一新会倶楽部(いっしんかいくらぶ)が発足した。2006年(平成18年)に小沢が党代表に就任し、候補者擁立に采配を振るったこともあり、2007年(平成19年)の第21回参議院議員通常選挙、2009年(平成21年)の第45回衆議院議員総選挙でそれぞれ民主党が大勝すると、当選した新人議員の多くが加入し、党内最大派閥となった。

<貼り付け終わり>


「この一新会の第2回全国研修会が、箱根のとある宿泊研修施設で8月の末に行われるから、外山先生も参加しないか!」との電話がかかってきたのだ。もちろん、大兄加藤幸弘氏も参加するという。
ワタシは行かない手はない、と思った。全国から政治家と政治家の卵さんがさんかする現場に立ち会える!!!!!! こんな美味しい教材は他にない。超政治的教員は、このように現場で教えられるのだ。


 こうして、のこのこと民主党(当時)の大リーダー、小沢一郎率いる勉強会(いわゆる派閥の前段階)に参加した。残念ながらワタシは途中からの参加で、主催の小沢一郎先生は会場にいらっしゃることはなかったが、この第2回一新会全国研修会を、詳しくブログでレポートしてくださる方がいた。
この方は、もうブログを更新していないようだが、2006年のこの記事はかろうじて残っていた。
 ・政治家研修会のレポート4 - 駒ヶ根に想う (hatenablog.com)
連絡もとれないので無断でコピッペする。


<コピッペ>
こうして、各ブロックごとに創出されたキャッチコピー、吟味された公約、
かなり次元は低いが頑張ってお絵かきしたポスターが揃いました。
翌日、これらを持ち寄って選考会が開かれました。
プレゼンテーションの後に全体投票があって、当選したブロックの代表は「総理」になる仕組みです。


ゲームとしては、かなり凝った趣向です。
総理の座を目指して、賢明なプレゼンテーションが行われます_と言いたい所ですが、
そこは政治家の面々ですから、登壇したら自己PRが最優先します。


持ち時間の冒頭は、押し並べてブロックに参加している代議士の紹介です。
中には、差し迫った自分の選挙応援を乞う姿もありました。
これが常識なのだろうとすんなり理解できてしまうほどに、政治家と庶民感覚の違いに慣れてしまいました。


しかし、中に一人だけ異色の代表がいました。
持ち時間の後半を、「余計なことですが」と前置きして、


政治を目指す皆さん、政治を支えようとする皆さん、もっと勉強してください


思わず、私は拍手してしまいました。
私と同行した2人も合わせて、約600人の参加者のうち3人の拍手が際立っていました。


この方は、会場近在の高校の政経担当の先生です。
研修会のありようを見て、思わず苦言を呈したくなってしまったのです。
これを聞いた代議士たちは、かなりご立腹のようでしたが、
個人的なキャラクターが優れていたことが手伝って、なんと優勝してしまったのです。
キャッチと公約に見るべきものはありませんでしたが、ポスターのアイデアは視点が優れていたと思います。


しかし、個々のパーツの成績からすると、上回る作品もあったので、
優勝の勝因はプレゼン能力の高さだったと思います。
話の内容もさることながら、聴衆を生徒に見立てて自分の世界へ引き込んだ時点で勝ちが見えていました。
演説は、内容よりも話術であることを強く印象付けられました。
もちろん、主張の本質も評価されるべきですが、本論の公約で劣っていても演説で十分に逆転できる、
それどころか、ダントツの優勝を勝ち得ることが出来た事は、郵政民営化選挙の小泉さんを彷彿させます。
<コピッペ終わり、太字拡大はワタシ>



ほらね。この記事にある、「政治を目指す皆さん、政治を支えようとする皆さん、もっと勉強してください」
と、壇上で演説したのは、ワタシです。ですから、

この方は、会場近在の高校の政経担当の先生です。

も、ワタシのことです。



 何かウケを狙ってこのような発言をしたわけではありません。元々登壇してプレゼンするつもりなど全く無かったのですが、グループ内で異色の「先生」という立場であり、長尾氏も加藤氏も、そろって推薦してくれたので、少し本音をぶつけて言っただけです。
 当時、民主党は、ようやく野党第一党にふさわしく、政権交代を視野にいれて活動し始めました。その政権をとる準備としての研修会であると認識していたのですが、そこに集まっておられた議員さん(代議士)達、そして支援者・後援者達の考え方が、どうしても幼稚じみているように思えたからです。
 実際に政権をとったあと、対決するのは自民党の政治家ではありません。対決するのは「既得権益に固まって現状を変えようとしない国家官僚」達です。特に、財務官僚を納得させなければ改革はできない。日頃の国内政治を観察していればこれくらいのことはすぐにわかる。でも、そこに集まった民主党の方々、特にスピーチの為に登壇した若手政治家さんたちは、選挙のことばかりを訴えているだけでした。それでは、国家官僚たにち敵わない。


 ワタシは、富士高校の政治経済の先生です(当時)富士高校というのは人口30万くらいの地域を地盤としたトップ校です。そのトップ校の中でも東大(特に文系)合格者をだすのは至難の業です。毎年5人の東大合格者を出し続ければ「超進学高」の称号をもらえます。その超トップ層の超トップランクの頭脳が、国家公務員1種試験(いわゆるキャリア)に合格し、その中の超々トップクラスが財務官僚となるのです。彼らは、頭脳の構造が違うのです。民主党が今後政権をとっても、改革は政権奪取よりも難しいのです。だって、相手は、自民党のぶくぶく金満体質の2世お坊ちゃんではなく、財務官僚達なのですから・・・・・
 このように(学校で教えるという)現場で習ってきたワタシは、この思いを研修会で叫んだのです。それが、
「政治を目指す皆さん、政治を支えようとする皆さん、もっと勉強してください」

という、発言だったのです。


 そして、このブログを偶然に、現職の富士市議会議員の先輩(富士高の)が発見してくれました。
 ニュース! 富士高教員が一新会全国研修会で優勝。 | 富士市議会議員 鈴木幸司オフィシャルブログ Powered by Ameba (ameblo.jp)
この鈴木浩司市議会議員のブログの2006年9月版に残っていました。


<貼り付け>
インターネット上の情報をたどって調べていくと
この近在の高校というのは「静岡県立富士高等学校」であることが判明。

居並ぶ政治家、立候補予定者といった悪党どもを見据えて、

「もっと勉強しろ!」とは痛快ではないか。



富士にも隠れた人材はいるものだ。
本人のお許しがあれば、いずれお名前も紹介したい


<貼り付け終わり>


こうして、富士市の活動家に正体がばれることになり、ワタシはこの鈴木幸司が関係していた。豪集会に誘われることになる。
細野豪志 - Wikipedia

豪集会とは正式な政治団体ではなく、衆議院議員細野豪志氏を応援する勝手連(かってれん)のようなものである。(ただし、今の自民党に見られるようなおらが寝集めの団体では絶対無い)
細野氏は、発当選当時、「パラシューター」というニックネームがつけられていた。パラシューターとは落下傘のことで地盤も看板も算盤(2世議員や3世議員のはこの3つがお膳立てされている)おない静岡県東部地区にいわゆる落下傘候補として舞い降り、初当選以来ずっと勝ち続けている。


 この勝手連である豪集会のある日の会合(正確には、会合後の宴会、もちろん割り勘だった、あしからず)に誘われた。
誘ったのは、ワタシの小学校・中学校・高校の同級生である伊藤君である。ワタシをブログに書いてくれた鈴木幸司氏も来るという。そして、その場に言ってみると、ますますびっくり、この会合の席には、小学校・中学校・高校の同級生がぞろぞろいる!!!!!!!
 この同級生達は、ほとんどが自営業者でした。富士市の活性化を目指し、現状の地域社会に憂い、少しでも地元の発展につねげようと、代議士細野豪志氏の下に集まっていたのです。これで気をよくしたワタシは、細野氏の勝手連・豪集会の集まりにずうずうしく参加していくのです。


 ただし、現在は知っての通り、細野豪志氏が自民党に鞍替えして衆議院議員をなされているので、どんどん疎遠になっております。実は、長尾たかし氏も自民党に鞍替えされております。
民主党だから応援していたワタシは、自民党に鞍替えした議員を手のひらを返すように応援することは出来ません。これが、政治経済を教える教員としての限界であり、信念です。


 ワタシが生徒に伝えるべきは、「どの政治家を応援するか」という政治活動(選挙活動)ではなく、政治思想です。アリストテレスやプラトンからばじまる。政治哲学です。この確固たる政治哲学を簡単に手放すことはできない。
彼ら(政治家)にとっては、まさしく当選することが死活問題ですし、地域の要望や支援に答えるためには、所属政党を変えてまでの生き残りが必要だったかもしれません。しかし、ワタシは、先生だったのです。自分が勉強してきた理論を捨てることはできません。「青臭いね」と言われても、小沢一郎先生をずっと信じ続けています。勉強して勉強して行きついた先が「国民の生活が第一」であり、今でも、鳩山政権の無念(対米自立を阻まれたこと)を忘れられません。国民を裏切り、日本経済を狂わせたプラザ合意も、日米構造協議も否定します。対米隷属を繰り返す、自民党の政治姿勢をゆるすわけには行きません。


 こうして、ワタシの(ネットによる)言論活動が続いていくのです。でもね、超政治的教員が政治的なブログ(活動当初は個人HP)を続けるって、相当大変なのですよ。「HPは更新が命」とおっしゃった先輩先生方は、どんどんこのITツールを手放していきました。ブログの件では、何遍も校長室に呼ばれてお叱りをうけましたが、一番の理由は政治的発言でした。(他にもあるけれどね)


 次回は、このブログ中断の事件について話します。 














Received — 2024年4月5日 tommy先生の「世相を斬る」

還暦老人ネット社会と出会う

著者: tommyjhon
2024年4月5日 05:48
全国の毒舌ファンの皆さま おはようございます。Tommyセンセです。

 ということで、本日は新任高校で、始業式&入学式。でも、いつもと違うのは還暦老人再任用ハーフの職員なので仕事が全くないこと。気楽だなあ。
さてと、連載中の「教員人生振り返りの記」


 2001年に母校でもある富士高校に赴任したワタシは、1年生の担任となり百人一首部を任された。百人一首部の大会成績は後回しにして、当時IT革命として一気に広がったネット社会との出会いを書く。
 百人一首部はマイナー競技ゆえ、卒業した先輩方が母校に教えに来たりすることがよくある。その時は、山梨大学にいたS君と都立科学技術大学に在籍していたM君が、よく練習に来てくれた。彼らは大学生ゆえに、このIT社会の発展に敏感で、先生もHPを作って「富士高百人一首部」を全国的に有名にしろと言ってきた。IT初心者のワタシは、自分がHPを作成するなど夢にも思わなかったが、言われるままにホームページビルダーおいうソフトをわざわざ買ってきて、2人の大学生に手ほどきをうけ、ホントに手取り足取り教えられながら、なんとかHPを立ち上げた。トップページにはワタシのかわいい写真とともにカッコいいロゴはM井先輩(この頃21歳前後)に作っていただいた。


 もう、このHPは閉鎖したつもりだったが、トップページは削除されているものの、「毒舌日記」の部分はかろうじて残っていたので、リンクを張っておく。
www2.tokai.or.jp/toyama_k/dokuzetu/dokuzetu1.htm

当時は、プライバシーに関する規制も少なかったので、こういうページも作成していた。
富士高スポーツ (tokai.or.jp)

 みなさんも、少し覗いてください。たぶん、これらはHP立ち上げ3年目の日記だと思います。

 
この日記(↓)のページの8/30の書き込みに“長尾さんのこと”という文章がある。
www2.tokai.or.jp/toyama_k/dokuzetu/do8.htm

過去の自分の文章を読み返すという作業は、本当は恥ずかしいものなのだが、ワタシのネット人生を振り返るうえでは、欠かせない文章である。(残っていてよかった)
勇気を出して、ここに貼り付ける。


ちなみに、ここに登場する長尾さんとは、こういう方である。
前衆議院議員 長尾たかし | 景気にはずみを、暮らしにゆとりを! (tnagaoj.org)



ウィッキを覗くと、
長尾敬 - Wikipedia



<貼り付けはじめ>
8/30(金) 長尾さんのこと


<民主党>大阪14区で新人の長尾敬氏擁立 次期衆院選
 民主党は29日の常任幹事会で、次期衆院選大阪14区で新人の長尾敬氏(39)の擁立を決めた。これにより、同党の衆院選公認候補は191人になった。(毎日新聞)
[8月30日0時31分更新]
 これは、本日のヤフーからの貼り付けである。僕は公立高校教諭であるから、政治活動はできない。僕に出来るのは、友人である長尾さんを紹介することだけだ。
 いま、友人という言葉を使ったが、まったく不思議な縁である。みなさんは友人を分類したことがあるかね?僕の場合、①かるた関係の先輩後輩②仕事上の仲の良い同僚(過去の職場を含む)③出身大学・高校の仲間、以外は存在しなかった。つまり、わりと友達が少ないってことだ。
しかし、ここにインターネットなるものが出現し、新しい出会いが始まった。だいたい「インターネット&出会い」なる言葉から思い浮かぶのかどうみてもいやらしい場面しかないだろう。99%は危険な香りのするアブナイ話になる。でも、この世の中には、それ以外の「出会い」もあるのだ。告白する。
 思い起こせば、昨年の10月頃(だと思う)。某F高の社会科主任のK先生から声をかけられた。「今度、県教育委員会の指導主事が僕と同期採用の先生を引き連れて、某F高に授業見学に来るのだけれど、先生の授業を見せるってことでいい?」と、相談というより半ば哀願された。「しかたがない」というところで引きうけたが、元来目立つことは嫌いではない。せっかく先生方が見るのだから「あっ」と驚く授業をみせてあげましょうと決意した。
 まず、授業の単元を決めなければならない。このような研究授業の場合、教育委員会にあらかじめ授業案を提出することになっているのだ。僕は自分の勉強の意味も含めて「国際関係・日米貿易摩擦」の分野を選んだ。そして、こそこそ勉強した。この「研究授業」なるものの捉え方は本当に人それぞれである。まずは、普段の授業を見ていただいて批評をうけようというタイプ。先生の一斉講義形式にとらわれず生徒の動きをダイナミックにして活動的な授業にしようとするタイプ。理解のしやすさを追求して研究するタイプ。僕は、どちらかというと「ある事象の捉え方に新解釈をつけるタイプ」である。つまり、見ている皆様(生徒を含む)の固定観念をひっくりかえして印象付けさせようとするタイプだ。
そこで、どうやったら新解釈的授業ができるかをずっと研究し、最終的に「プラザ合意」を軸に日米関係を考えてみようということにした。そこで、ヤフーの検索エンジンで「プラザ合意」やら「日米貿易摩擦」やらをキーワードに検索しまくった。。もちろんデータ等は官公庁のHPで取り寄せた。しかし、官公庁の発する文章や、大学の講義録に書かれていた文などを読んでもどうも理解できない。あのような文章からすぐ真実を理解してしまう人こそ秀才と言うのだろうと変な敬意をはらいながらも何かもやもやした気分であった。そんな時に検索に引っかかったのが長尾氏のHP「グローバルネット」である。やけに濃い文を書く人だなと最初の印象をもったのだが、このことをすべてパクってしまえば絶対面白い授業ができるとピンときた。言葉に力があったのだと思う(最終的にはすべてに力のある人であることが判明する)。是非みなさんも検索エンジンで遊んでみて欲しい。例えば「アフガンの真実」なんて言葉で検索すると1ページ目に僕のサイトがでてくるぞ。
 そして、このグローバルネットの主催者の長尾さんには正直なメールを出した。「実のところ、僕は高校教師です。今回、プラザ合意に関して研究授業をやることになり、長尾さんの文章を大いに参考にさせてもらいます」と。するとご丁寧な返信がありその中で自分も教育実習の研究授業で悲惨なめにあったことなどが書かれてあった。
 とりあへず、研究授業は無事終了した。そして僕はこのグローバルネットを「お気に入りに追加」し毎日見るようになる。しかも自分のHPにリンクまでいれてしまった。現在、MYホームページの超お勧めサイトのページには4件のリンクを貼りつけてある。副島隆彦先生、長尾氏、日垣隆先生、玉木正之先生 の4人であるが、現在のところこの4人を先生と呼ぶ。(副島先生の言葉の中に「私は先生を自分で選ぶ」というのがありそれに従っている)
 その後、何度かメールのやりとりがあり、長尾氏のサイトのコラムでも「T教師」として取り上げていただいた。また、このグローバルネットのメーリングリストにも参加した。 
 このメーリングリストに参加したことが、また一つの転機となるのである。実はこのメーリングリストも僕と同じようにネットで知り合った長尾氏を中心と憂国の志の集まりであった。したがって、職業も多種多彩であり、思想的にも左翼から右翼までいる。遠く広島や愛媛にも仲間が居るらしい(本当に一番遠いのはインドネシアだそうだ)。この憂国の志達は時々集まっては酒を酌み交わしているらしいことも判明した。このような集まりのことをオフ会というのだそうだ。これも初めて知った。そして、このメーリングリスト仲間の誰かの発案で史上初の「言論合宿」をやろうということに相成った。史上初と言ったが、今から140年前には頻繁にあった(何のことだかわかる?)。しかし、あと140年後には本当に史上初になるかもしれない。
 さて、その合宿先がなんと大泉村というではないか!!!。憂国の志の幹事長K氏の関係の別荘で行うというではありませんか。なんだ大泉村ならば昔、何回もデートでいったことがある。(本当は2回、すべて今の奥さん)割りと近いではないか。ならば行って見よう。
 そして、このフルベッキ言論合宿(この意味は調べて)に遅刻して現れた長尾氏は「民主党の大阪14区の公認候補として内定した」という信じられない発表をする。実はこの時に初対面である。
 だいたい、一介のサラリーマンが仕事以外にこんな活動をしていることにびっくりした!!!!(長尾氏はやり手の生命保険のセールスマンだった)。その職を辞めてまで政治活動をすることにもびっくりした!!!!!(公務員こそが、終身雇用制にしがみついている度第一位である)選挙権の行使ではなく被選挙権の行使を生で見た瞬間だ。


 この長尾氏とご存知副島隆彦先生がネット上で対決したことがある。(この合宿の前だ)僕のHPのリンク先の隣同士であり僕は毎朝お2人のHPを見てから学校に行くのを日課にしていた。なんと副島先生のコラムの見だしに「長尾敬なる人物」とあるではないか!!!!。なぜだ、
 ようするに長尾氏の文章のなかに副島先生の盗作部分があったのである。そして、僕はすぐにメールをうった。相当な量のメールが来たらしい。長尾氏は即座に謝罪メールをだし、謝罪文をネット上にアップした。逆に副島先生は長尾氏の筆力を評価したみたいだ。
 長尾氏は立候補が内定したことを副島先生に報告した。副島先生はたいそうお喜びになられて長尾氏を食事に誘われた(なんか昔話の偉人伝みたいな記述になってしまった)。この食事会が8/27のことである。長尾氏は僕が副島先生の本を良く読んでいることに気を使ってくれて、この食事会に誘っていただいたのだ。その後は加藤氏のマンションで寝かせてもらった(加藤氏に関しても2回しかあったことがない。それなのに加藤氏の2箇所の住居に宿泊した事になる。不思議な縁だ)


さて、この話、今後どうなることだろう。長尾氏は大阪14区に引っ越した。インターネットのサイトは選挙用の公式サイトになるらしい。応援しようにも何も出来ない。せいぜいアジの干物でも差し入れするくらいだ(必ず送ります。)
 今後の長尾氏の動きは報告されるかもしれないので、差し障りのない話は皆様にできるだろう。


実に不思議な縁だ(長尾氏の口癖)

<貼り付け終わり>


このようにして、ワタシの“超政治的教員”の人生が始まるのである。
ワタシは政治経済を教えているのだが、教員が、政治的な活動に深入りするのは今でもタブーとされている。なぜだろう?虎穴に入らずんば虎子を得ずともいうではないか。法律的には、選挙活動はダメ(教員の中立性)だが政治活動はOK(言論の自由、表現の自由)なのだ。


ブログアップ後、FBを通じて加藤氏から、この大泉合宿の写真を頂きました。記念に貼り付けます。本当にお世話になりました。
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・・・・若いなあ。






Received — 2024年4月4日 tommy先生の「世相を斬る」

緊急声明(川勝平太知事の辞任をうけて)

著者: tommyjhon
2024年4月4日 06:36
全国の毒舌ファンの皆さま おはようございます。Tommyセンセです。

 ということで、現在進行中の(いつ終わるかわからない)連載企画「還暦老人教員人生を語る」を休載して、先日辞任を表明した川勝平太静岡県知事に関する件を書きます。直接の原因が、県庁新職員への訓示だったので、4月1日の話となる。したがって、エイプリルフールに間に合わなかったのだが、もし、4月1日以前にこの訓示が行われていたら、ワタシ、Tommyセンセは、「次期知事選に立候補します!!!!!!」という記事をだしていただろう。


 この頃の川勝知事は、舌禍問題で全国的な悪者になってしまっていた。コシヒカリとか今回の訓示とか・・しかしながら、県知事選挙では勝利し続けたように静岡県民にはひそかに愛されていた知事だったように思われる。
今日は、静岡県民として、川勝平太知事の偉業について記す。
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これがリニア新幹線のルートマップである。
 ルート・工事マップ|リニア中央新幹線|JR東海 (jr-central.co.jp)
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貼り付けたのは、ルートマップのスクショ。
ご存じの通り、リニア新幹線は山梨県にある実験線を延伸して東京⇔名古屋間を結ぶ夢の超特急だそうだ。しかしながら、区間の中で、静岡県に停車する駅はない。静岡県は、南アルプスを通過するだけである。
つまり工事中はまだしも、リニアが開通するしたところで、経済効果はゼロである。
東京都にも神奈川にも山梨にも岐阜にも新駅ができるが、静岡県はトンネルが通過するだけの県。
しかも、静岡県は東海道新幹線が貫いているが、「のぞみ」が一本も止まらない“のぞみが通過するだけ”の県でもある。



 そんな静岡県の良識な県民たちの恨みや妬みを代表して、「恨み」「妬み」「怨嗟の声」を、(静岡県生まれでもないのにかかわらず、)県民を代表して発言し続けたのが川勝平太静岡県知事である。
静岡県民は、剛健進取の気風で日本を世界的な工業国に育て上げた逸材を生み続けたが、一般的には温厚で穏やかな県民だ。特に静岡市民は明治時代に朝敵徳川家の最後の将軍を優しく迎えてあげたくらいに優しく、心温かい。
 
 そういう穏やかな県民性が災いし、国とJR東海の無礼に真っ向から反対することが出来なかった。


「リニア通してやるから、のぞみを静岡と浜松に停車させろ」というのが、普通に考えられる取引材料である。もっと激しく、「リニア通してやるから、富士山静岡空港に近い新幹線新駅を作れ」でもいい。
しかしながら、リニア開業に関して、川勝平太知事の宿敵、金子元JR東海社長は、一度も、静岡県民の意見を聞こうともせず、「国が決めたルート」「国が決めた計画」の一点張りだった。
川勝平太知事も、“のぞみ停車”を取引材料として使うことはぜず、水問題と環境破壊を主な対抗理論として戦ってくれた。川勝平太は伝家の宝刀を残してくれたのである。


 水問題と環境破壊は、リニアの掘削工事とは切り離せない大問題である。もし工事中に南アルプス由来の地下水が静岡県にこなくなったら静岡県民はどうなるのか?この件に関しては、JR東海側は、完全な保障(保証も?)ができないでいる。
「こんなもの、掘ってみなければわからないよ」というのがJR東海の本音だ。穏やかで優秀な静岡県民は、それなりにわかっている。県民全体が、「掘ってみないとわからない」とわかっているところを、川勝平太知事は、真っ向から戦ってくれた。「より正確に、より精緻な、予測を提出しろ!!!!」と言って 金子前JR東海社長と戦った。
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(金子の横柄な物腰を、静岡県民は好きでない)


何度も言うが、川勝平太知事は、穏やかな物腰であまり本音を出さない静岡県民の代わりに、国とJR東海にケンカを売ってくれた英雄である。
もちろん、川勝平太知事とて、静岡県の反対でリニアを止めることはもうはや出来ないことは悟っている。
ウィッキには、こんなことも書いてある。


<貼り付け>
2024年3月、JR東海が川勝による静岡区間の事業不認可のために2027年までの開業を延期すると発表すると、「リニアの開業時期が延期され、自分の責任は果たした」として任期途中での知事辞任を発表した。川勝から直接辞任の経緯の説明を受けた議会議長の中沢公彦は、「(JR東海への)嫌がらせが成就したので私の役目は終わったという感じだった。」と述べた。 
<終了、拡大太字はTommyセンセ>


こうやって、物言わない、だけど不満が大きい静岡県民を代表して、無礼なJR東海に対して、盛大な嫌がらせを続けてくれた現代版義民である。


 川勝平太の失言に関しては、もはや「癖」の部類である。ほとんどが、聞いている人々へのリップサービスのようなもので、差別を感じさせるものではあるものの、到底、心底からの発言とは思えない。
それよりも、「のぞみを停車させろ」と一言も言わずに、この嫌がらせを成就させた川勝平太知事に、もっともっと敬意をはらってもいいと思う。


 この頃、暇で、昼間のニュースをよく見るのだが、中央キー局のアナウンスメントと静岡県のローカル局の報道が、似てきたのは許せない。ローカル局ならば、もっと静岡県民側にたって川勝平太知事の“嫌がらせ”を応援しろよ。


 最後に一言、
静岡県がリニアを許可したとはいえ、リニアが開通できるかどうかはわからないよ。
日本には、国道ならぬ、酷道と言われる道が存在する。一番有名なのが、国道152号線だ。
(実は、3日に少しだけ走破してきたのだが、全日土砂降りで、写真を撮らずじまいだった)
(8) 分断国道152号線 浜松→高遠間の車載動画 タイムラプス倍速 各峠、迂回路林道もあり。 【酷道】 - YouTube





リニア新幹線は、この酷道152号線と直交するようにトンネル工事が行われる。日本一の壊れやすい断層地帯を無事に掘削できるのかは、静岡県の水問題と同様に、「掘ってみなければわからない」のだと思う。


2037年開通とか言っているが、リニア新幹線の営業運転は2050年代になると思う。
若者諸君、今、ワタシがこのように書いたことを忘れないでね。








Received — 2024年4月2日 tommy先生の「世相を斬る」

還暦老人富士高に転勤する

著者: tommyjhon
2024年4月2日 05:08
全国の毒舌ファンの皆さま おはようございます。Tommyセンセです。

 ということで、ブログランキングを二桁(ブロガーの世界も厳しいのよ)に押し上げる久々の大ヒット!!!!!
謹んでお詫び申し上げ、ブログを中止いたします。 : tommy先生の「世相を斬る」 (exblog.jp)

たった10分くらいで、安直に作った記事の方が、Gopro撮影から初めて編集・Youtube投稿とほぼ半日を費やした、「離任式動画」(還暦老人、離任式のYoutube動画を投稿する : tommy先生の「世相を斬る」 (exblog.jp))に比べて3倍のヒットを稼ぐというこの日本は、少し間違っているんじゃなかろうか?



 さてと、「還暦老人の教員史を振り返るシリーズ」も第4章に突入する。題して“富士高時代”
2001年、我が人生のITメモリリアルの年である。


 転勤の顛末から。
2000高総文祭静岡大会を静岡県高校かるた専門部の事務局長としてやり遂げたワタシは、もう長泉高校に仕事はない(部活の顧問はかるたの専門家が引き継いでくれた)と感じたワタシは、転勤を決意する。
というのも、部活の先輩で、長泉高校元顧問で、富士高かるた部の顧問であった、嶋先生がなんとその1年前に筑波大学大学院に派遣されて、富士高校は指導者がいない状態だったのだ。
そして、富士高校に勤務していた女房もその少し前に転勤していた。まあ、タイミングとしてはベストな時期だ。
ワタシは、進路課に配属され1年生の教科「現代社会」を担当することになった。


 当時、富士高校の進路課は何かと有名な部署で、ADACHI(アダチ)という進路課長が、静岡県内のみならず全国的にも“熱血的な?高圧的な?強引な?強力な?”進路指導で、ブヒブヒと鼻を鳴らせながら闊歩していた。そのADACHI先生がちょうど退職し、富士高進路課のメンバーもかなり一新されることになった。ちょうど、その時にワタシが転勤したのである。しかし、本格的進学校の進路指導経験はなく、当時はやり始めていた「PCを使ったデータ分析」も出来ず、それほど進路課で重宝されたわけではなかった。もちろん30代半ばの(富士高の教員としては)若手だったので、1年生の担任にもなった。


 富士高という高校は、今までに経験したことのない優秀な才能の集まるところで、ワタシが1年担任として担当したクラスには、のちに東大に進学する英才が2人もいた。1年担任として、一番の難関は「クラス役員決め」である。初めて出会った40人のクラスで、クラス委員長や応援委員会2名など、いろいろなクラス役員を決めなっければなならい。これは当時どこの学校でも同じことで、ワタシは長泉高校時代に“世界一公平な決め方”を編み出していたので、同じパターンで役員決めをすることにした。
その役員決めシステムは、クラス委員長と応援委員が、「クラスで最もやりたくない仕事」であることが大前提になっている。この2つは誰も絶対にやりたがらない、だから・・・・・(これ以上を紙面で説明することは難しいのでやめる)
しかも、富士高校応援委員会は、(ほぼ)静岡県一の凄い応援団で、他の生徒たちからは、先生よりも厚い尊敬と畏敬と信頼を得ていた。そもそも、富士高の先生方は、集会も集合も校歌応援指導も応援団に任せきりだった。
 ところがだ、ワタシのクラスの役員決めは、あっという間に終わってしまった。A君という生徒が、委員長に立候補し、I君という男が応援委員に立候補してくれたのだ。この2人が3年後に現役で東大に進学するのである。
秋葉 宏樹 (Hiroki Akiba) - マイポータル - researchmap

I君も、帝国重工(の本物)で、偉くなっている。


 したがって、「なんちゃって政治経済」しか教えてこなかったワタシは、この富士高時代に徹底して教材研究をすることになる。毎朝、3時頃に起きて5時ごろまでパソコンに向かう日常は、この頃に作られた。また、富士高の職員室でも本ばかり読んでいる人間となった。
 この「パソコン」と「教材研究」の2つがワタシを大きく変えていくことになるが、その話は次回ね。


























Received — 2024年4月1日 tommy先生の「世相を斬る」

還暦老人、離任式のYoutube動画を投稿する

著者: tommyjhon
2024年4月1日 08:24
全国の毒舌ファンの皆さま おはようございます。 Tommyセンセです。

 実は、エイプリルフールの投稿を超早朝にアップしたのですが、誰にも相手にされません。


 それはそれで面白くないので、次の投稿を早速してしまいます。 令和6年度が始まり、完全に無視されようとしています。
このままでは、まずい!!!!!!


 ということで、先ほどまで頑張って編集作成した(何せ2年ぶり)。Youtube動画をアップします。
おそらく静岡県史上初の「離任式個人向けYoutube動画」のはずです。


 皆さん、10分間。正座して聞きなさい。(見なさい)

謹んでお詫び申し上げ、ブログを中止いたします。

著者: tommyjhon
2024年4月1日 02:19


 関係者の皆さま、Tommyセンセを名乗る男の親族です。
下記のような不祥事が発覚したことを、本日ご報告し、本人に代わって関係者の皆様に大変ご迷惑をおかけしましたことをお詫び申し上げます。
つきましては、本人の強い意志により、このブログを中止いたします。2024.4.1




勤務先高校で着替え中の女性盗撮疑い、教員の60歳男を逮捕
2024/3/31 20:15


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静岡県警伊豆中央署


勤務先の伊豆の国市内の県立高校で着替え中の女性を盗撮したとして、静岡県警伊豆中央署は31日、性的姿態撮影処罰法違反(撮影)の疑いで高校教員(60)=富士市=を逮捕した。
署によると、別の容疑者の事件捜査で容疑者が盗撮した動画が見つかり、発覚した。撮影された女性については特定できていないという。

逮捕容疑は昨年10月29日午後7時5分ごろ、校内で着替え中の女性を動画撮影したとしている。県教育委員会は「事実関係を調査し、厳正な処分を検討する」としている。


https://www.chunichi.co.jp/article/863019

Received — 2024年3月28日 tommy先生の「世相を斬る」

還暦老人離任式前夜

著者: tommyjhon
2024年3月28日 04:49
全国の毒舌ファンの皆さま おはようございます。Tommyセンセです。

 ということで、今日は離任式。したがって、表題の離任式前夜という表現は本当でなく、実際は「離任式夜明け前」
昨日の帰宅ドライブ中、一所懸命に離任式の演説の練習をした。最初のつかみで滑る場合と、妙にウケる場合が想定されるので、基本的には両方練習した。
大丈夫だ、恐れてはいけない。 Fearless だ。


 ワタシが教員となって社会人生活をスタートした頃(1990年前後)、一瞬にして好きになった黒人グループがいる。どの音楽ジャンルに属するのか知らないが、当時からすべてのCDを集めた。
 ネヴィル・ブラザーズという。
そのリーダー、アーロン・ネヴィルのソロで、この曲をワタシの生涯の友としようと勝手に誓ったのが、“FEARLESS ”である。


歌詞のサビは、
We must stand in the light, willing to fightWhatever may come between us and be fearlessWe must be fearlessCounting on help from aboveTrusting the power of loveWe must be fearless, fearless, fearless

の間に何が起ころうと

僕たちは光の中に立ち戦う準備をしなければならない恐<野暮だけど日本語訳>僕たちは光の中に立ち戦う準備をしなければならない恐れてはいけない僕たちは恐れていてはいけないんだ
天からの救いを期待して
愛の力を信じながら
僕たちは恐れていてはいけないんだ
<終了>


 ワタシは、この歌を結婚式の入場の曲にしようと決めた。(まだ、誰と結婚するかは決まっていなかった)そして、事実、この曲で入場した。
だから、この曲で葬送の儀式もしたい。(ワタシは死ぬうことをを恐れていない Fearless  だ)
今日は、離任式だけれど終わりではない。何か新しい刺激の始まりだ。


 楽しく、元気を出して離任するべきなのだ。
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 昨日から本日にかけて、お別れする先生方や生徒たちに配る缶バッジ。
「あれれ、マグネットではないのですね」
と問いかけてきてくれた先生がいた。でもね、マグネットにすると予算オーバーなんです。お餞別で●●円くらい頂き、その想定餞別金額を考えながら、デザイン料と加工料を算出したのです。理解してください(わかってください)。


 もう一品が、「粗品のタオル」日本のご挨拶文化の象徴である粗品のタオルは、今回も作成した。(富士高でも清水東でも作った)
今回は、粗品中の粗品、お風呂のタオルにした。
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正真正銘、温泉旅館でもらうタオルである。


温泉旅館の名前を、“進路の湯”という。温泉名は“伊豆の中央温泉”
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開いてみると、こんな感じになる。
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 伊豆の中央温泉 進路の湯 情報垂れ流し
住所:伊豆の国市寺家1031(トミイ) TEL 0120-117ー184(イイネ いやよ)



とコマーシャル。
裏面は、
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 こんな症状によくききます。
  思春期多感症 受験過敏症 偏差値恐怖症 模試疲れ 先生の無神経 親の過度依存 塾の洗脳 予備校営業過多
  支配人Tommyセンセ




 どうせ生徒会長か誰かが、「先生方のお別れするのは名残惜しいですが・・・・・」なんて挨拶するだろう。
離任式なんて恐れることはない。何かの始まりだ。ワタシは伊豆中央を去るが、代わりの先生はやってくる。4月からは新しい友達と出会うかもしれない。
コナン(未来少年の方だよ)がジムシーと出会った時のように。
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もしかすると、ラナとの出会いもあるかもしれない。
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婚期を逃している女性や男性も、4月になると、モンスリーとダイスのようになるかもしれない。
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 若者たちよ、宮崎駿のスタートは、『未来少年コナン』だよ。
未来少年コナン公式サイト (future-boy-conan.com)

ウィッキより

未来少年コナン - Wikipedia



 正規教員の最後として派遣された伊豆中央高校で、予定通りの最後を迎えることが出来て本当にありがとうございました。
ワタシは、ネット上で、ずっと不滅です。


 じゃあね。
そして、
 Fearless 


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 この頃、家の中が美しくなっている。
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 新しい仲間のサボテン君と、決して安くないお酒。
れてはいけない
僕たちは恐れていてはいけないんだ
天からの救いを期待して
愛の力を信じながら
僕たちは恐れていてはいけないんだ
Received — 2024年3月27日 tommy先生の「世相を斬る」

還暦老人教科指導を振り返る

著者: tommyjhon
2024年3月27日 05:57
全国の毒舌ファンの皆さま おはようございます。Tommyセンセです。

ということで、今日は身辺整理で出勤、明日が離任式。(卒業生の皆さん、缶バッジあげるから来てね)


 さてと、好評連載中の教員人生を振り返るの記、本日が2000年近辺で、長泉高校の終わりとなる。今日は、教科指導の話。
ワタシは、静岡大学人文学部社会学科社会心理コースを卒業した。世間からは、「就職に使えないコース」と言われ、実社会ではほとんど意味のない勉強(細かく言えば正しいと思う)をしていた。かろうじて、教職課程を履修し、「可」ばかりであったが単位はそろえてあったので、高校二級免除を、ギリギリで獲得することができた。
 当時お付き合いしていた女の子(教育学部の美人)から、「トミィ、スパイとか探偵とか、空想的なことばかり言ってないで、ワタシみたいにちゃんと先生になったら結婚してあげる」とそそのかされたことが原因で、少し真面目に教職員採用試験に臨んだ。教職採用試験なんて、4月から7月まで真剣に勉強すれば合格できるのさ。
 そういう不真面目なモチベーションだったので、受験科目である「政治経済」など本気で理解しているわけではなかった。なぜ、合格したのだろう??????
ちなみに、その女の子には、2月5日にフラれる。「結婚してあげる・・・・・」といったのは何だったのか?


 さあ、その「政治経済」ではあるが、2000年代までは完全に“社会科”の亜流であって、教科の序列で言えば家庭科の次で保健の前、くらいの重要度だった。この教科序列というのを先生方はあまり教えない。自分の仕事に直結し、いわゆる“沽券にかかわる”からである。
<意味の注釈>
男の沽券(こけん)にかかわる、などといったりしますが、意味は評判や品位、体面に差し障りがあること、プライドが傷つくこと。 沽券は売り券ともいい、平安中期から土地や家屋、諸権利の売買の際に用いられた売り渡し証文のことです。

<以上、Google検索>


 教科の序列を、中学生段階では、「国語数学英語理科社会」の5教科をフラットに教える、「音楽技術家庭科体育」が実技4教科だ。でも、本気で学問としての重要度、受験科目としての重要度で教科序列を作ると、①数学②英語③理科④国語(古典)⑤社会 である。数学もしくは英語ができければ大学生になれない。日本の若者は、中学生の時に、5教科の重要度はフラットだと教えられる(だって内申点に差がない)が、高校生になると、急に①に数学②に英語・・・・③④がなくて⑤が国語(もしくは理科)となる。なぜだろう?
 その一つの答えが、中学校における教員の分離区分にある。中学教員を文理でわけると、数学と理科(かろうじて技術)だけが理系で、国語、英語、社会、体育、芸術、家庭科、が文系である。したがって、中学校では、理系だった先生が圧倒的に少ない。つまり、「理系が本当の学問なのだ」と教える先生が圧倒的に少ない。これはおかしい。


 その教科の序列を高校での現実を見て格付けするならば、「政治経済」は家庭科よりは下だが「保健」よりは上、くらいの重要なのだ。その理由は 「センター試験」と私大受験にあった。2000年当時、センター試験は5教科5科目が必修で、国語、数学、理科、社会、英語の中から1科目ずつ受験すればよかった。よって、満点は700点(数学1科目の場合)か800点満点だった。文系私大では、国・英・社(歴史)が当たり前で、政治経済(当時の呼び名で現代社会)は必要てなかった。
ワタシもこの流行に勝てず、1990年代、沼商でも長泉高校でも、世界史を主に教えていた。政治経済(科目名は「現代社会」)一般教養科目だったのである。


 受験に関係ない「一般教養科目」だったので、誰からも注目されずに勝手な授業をしていた。もちろん、生徒にとって有意義な授業は目指していた。気になったのは、「英語」である。これは絶対の受験科目で日本人が一番苦手なところだ。でも、高校生は英語の勉強を英語の時間でしかしていない。それは、日本語がとても精緻で中国3000年の歴史のある漢字を上手に取り入れたから、日本語だけですべてが解釈できてしまうからである。聞くところによると、今中国で使われている熟語(漢字の組み合わせ語)の70%は明治時代以来の日本語由来の熟語だそうだ。理系の論文を書ける言語は、英語と日本語だけかもしれない。
だから、日本人は英語が苦手である。
 一般教養科目として、教科「現代社会」で取り組んだのが、英語で政治経済を教えることである。
①日本国憲法は英語でやった。(だって、GHQが作ったのだから、原文は英語でしょ)
②英語のテキストを使った。
  日本タテヨコ: 和英対訳 | Gakken |本 | 通販 | Amazon
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この本は、英語で日本のあらゆる事象を英語圏の人に教えるために作られた、日英対訳の本である。この「日本政治」や「日本経済」の部分をテキストとして使って授業をした。
③時には、英語入試問題から英文を持ってきた。


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これこれ、 この中には、世界情勢をズバリ捉えた秀逸な文章が多い。
④ ALT(学校にいるネイティブの先生)とチームチーチングを組んだ。母国の政治や経済の英語で語ってもらい、ワタシ達(ALTとワタシ)が英語&日本語で語り合う。
というような生徒にとっては大迷惑の授業をどうどうと取り入れた。(誰も怒らなかったよ。)



したがって、
①ワタシのクラスにリントンラスジン君が所属した。(彼は留学生として競技かるた初段をゲットした、)
②「国際理解」という学校独自科目を任されることになった。(教科書も共同執筆したぜ)
③国際コースの担任もやった。
④教科の研究会にことあるごとに呼ばれた。
ということになった。



 しかし、英語で授業をやったからアメリカが好きだったわけではなく、だんだん大人になる(先生も大人になるのだ)につれて、右翼志向から転向し、戦後60年の隷属的な日本の地位を憂うようになり、日本政治や日本経済を深く研究するようになっていく。
右翼=天皇陛下万歳=自民党=アメリカ隷従路線 という歪んだ構図に、統一教会が深く入り込んでいることがやっと世間にさらされて嬉しかったなあ(昨年は)
1985年の日航ジャンボ機墜落事件、1985年のプラザ合意、1991年ころからの日米構造協議、日米包括経済協議、日本の金融危機、
調べれば調べるほど、「政治経済の教員」として、“このままでいいのか”という思いが募ってきた。


 2001年4月、ワタシは長泉高校を離れ、母校、富士高校に赴任することなる。
“このままでいいのか” の思いが大爆発するのが、母校富士高での大きな出会いである。 
Received — 2024年3月26日 tommy先生の「世相を斬る」

還暦老人職務を語る

著者: tommyjhon
2024年3月26日 06:02
全国の毒舌ファンの皆さま おはようございます。Tommyセンセです。

 というととで、昨日は初めての清水西高校訪問(打ち合わせ出張)。顔見知りの方が数人いらっしゃって気持ちが軽くなった。窓ガラスが「木枠&スリガラス」という骨董品価値があるような古い校舎だけど、気分良く過ごせそうだ。ただし、校舎と校舎を繋ぐ渡り廊下に少し大きな段差があり、腰の悪い人間としては危険だ。


 本日は、長泉高校(20代後半から30代半ばまで)でどんな仕事(授業)をしていたのか?という思い出話。
ワタシは、ADHD系の特徴を持つ子供であった。
ADHD(注意欠如・多動性障害)とは?特徴やよくある困りごと、接し方など|LITALICOジュニア|発達障害・学習障害の子供向け発達支援・幼児教室|療育ご検討の方にも
忘れ物も多く、授業中に落ち着きがない。今でも、鉛筆やメガネの柄の部分を自然と舐めてしまう。小中学校では、「授業中にものを舐める癖」が治らなかった。先日、伊豆伊東高校のM先生が、退職のお祝い品をもって学校に来てくれたが、中身は、老眼鏡置きと老眼鏡の首掛け紐のセットだった。M先生から見れば、(老眼鏡のメガネの柄を舐めることが)よほど気になったのだろう。
授業中に落ち着きがないというのは、授業のリアクションが大きい子供(反応がいい)でもあって、扱いにくい子供の割には先生に好かれていた。きっと、楽しい時には楽しい顔をして、つまらない時には露骨につまらない態度を見せる生徒だったのだろう。
 なので、「沈黙」が一番の苦手である。黙っていることが出来ない。周囲から勘づかれているが、職員会議など、沈黙が必要な時はだいたいが、資料やハンドアウト(レジュメ)にいたずら書きをしている。自分では、「資料にすぐ名前を書くから、大人として正しい」と自画自賛している。もちろん、名前を書くことはいたずら書きの一つだ。



したがって、誰かが発言しなければならない会議でも、黙っていることができない。
例えば、「司会を誰かにやってもらいたいのですが・・・・・・」とか「誰かが次を引き受けてくれないと・・・・・・・」という会議が苦しくてしょうがない。1分くらいの沈黙が続くと、もうイライラして大変だ。
そこで、「ワタシがやりますよーーーーーーぅ」と大変なことになることはわかっているのに返事をしてしまう。次に続く仕事が相当難しい仕事になることがわかっていても、その場の沈黙の方が耐えられない。どうやら、この性向は、遺伝している。2人の息子たちも、沈黙が耐えられない人間になってしまった(だから家庭がうるさい)。
生涯、理数科担任や学年主任、教務課長、進路課長、と様々な仕事を引き受けたが、最終的には「ワタシがやりますよーーーーーーぅ」となってしまった。自分がその才能に乏しいことは重々自覚している。事務的能力はあまりない。ミスも多いし、敵も多い。でも、沈黙よりはましだ。

そして長泉高校で、引き受けてしまったのが、「静岡県高文連百人一首専門部事務局長」である。長泉高校3年目から転任するまで、ずっと事務局長をやってしまった。そして、この仕事は2000高総文祭静岡大会の開催に直結していた。


 ADHD系人間の常として、みんなで大騒ぎするのは嫌いではない。要するに“非日常”が大好きだ。例えば、火事。ご不幸なことではあるが、火事の合図があるとどうしても駆けつけたくなる。清水東に勤務していた(富士高校を転勤していた)頃、朝早くに「富士高校で火災」という地域放送とともにサイレンが鳴った。これは一大事だと思い、慌てて現場に出かけたワタシは、「現場でうろうろしている不審者」としてあやうく疑われそうになった。(いち早く、どの職員よりもはやく駆けつけただけなのに・・・・)
 文化部の連中にとって、「全国高等学校総合文化祭」が静岡県で開催されることは、最上級の非日常、(高校の)文化祭の頂点であって、いやいやながら百人一首専門部事務局長をやっていたワタシは、嬉々としながらこの仕事に携わった。百人一首競技かるた自体は、単純な都道府県対抗の団体戦を開催するだけだけれど、この一連イベントの中で、ステージ部門(吹奏楽、演劇、管弦楽、合唱など)の責任者をつとめたこともある。


富士高OBに林哲司さんという有名な作曲家さんがいらっしゃる。
林哲司 50th anniversary official site|林哲司デビュー50周年記念特設サイト (ht50th.com)

やっぱり代表曲はこれ




(注釈) ワタシが進路系仕事の担当して以来、名古屋大学などの中京方面に入学する生徒に、よく頼んだのは「帰省のお土産は名古屋嬢にしろ」ということだった。
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その理由は、このパッケージのイラストが、中森明菜の北ウイングを思い出ささせるからである(特別美味しいわけではない)。


閑話休題。


この大作曲家、林哲司先生の事務所を訪れ、打ち合わせをし、ロゼシアターに呼び、イベントのコーナーとして出場してもら、という仕事を、なんで「百人一首かるた事務局長」の身分でやることになったのだろう。
やっぱり、「沈黙が一番嫌い」だからか。


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このマスコットキャラクターの元で、2000高総文祭静岡大会が行われた。
開催地一覧↓
大会開催地・テーマ・シンボルマーク等 | 公益社団法人全国高等学校文化連盟 (kobunren.or.jp)



この仕事を成功させて、長泉高校を去ることになる。


でもね、かるた関連以外の仕事もやっていたのよ。(次回はこれ)


Received — 2024年3月25日 tommy先生の「世相を斬る」

還暦老人メンタルトレーニングを語る

著者: tommyjhon
2024年3月25日 11:04
全国の毒舌ファンの皆さま おはようございます。Tommyセンセです。

ということで、好評連載中の教員人生を語るの記。


 元長泉高校かるた部で指導者人生をスタートしたワタシは、全国優勝できるチームを預かりながらも、全国大会の舞台で滑り続けていた。自嘲気味に「シルバーコレクター」と称したが、完全に自虐ネタである。競技者としてはそれほどでもないので、自らがお手本を見せることもできない。かるた競技は誰でもそれなりに強くなることは出来るとは思うが、一流選手になるためにはそれなりの才能が必要である。そんなことは高校1年生の時から身をもって体験していた。ワタシは長泉高校かるた部の強さ序列ではいつも6~7番手の選手だった。
 そこで、答えを“競技者として強くなる普遍的な方法”に求めた。より体格が必要である競技ではウエイトトレーニングなどが普遍的な方法である。パワーは格段に強くなる。晩年、野球部の(なんちゃって副部長)を務めたが、当時の監督は、「野球で全力疾走が必要なのは一試合15分」と割り切る徹底的な合理主義者であって、単純なランニングなど目もくれなかった。そう考えると、野球部の選手が校内マラソン大会で優勝するなど、完全な競技のミスマッチである。(大谷翔平に一番不釣り合いなのはマラソンだ)
 競技かるたは、筋力も体力もそれほど必要ではないので、普遍的な方法として縋りついたのが、“メンタルトレーニング”である。
2000年当時、世の中にメンタルトレーニングなる練習方法が一気にメジャーになっていった。その嚆矢になったのが、西田文郎著の『NO1理論』だと思う。
Amazon.co.jp: No.1理論 ―ビジネスで、スポーツで、受験で、成功してしまう脳をつくる「ブレイントレーニング」 eBook : 西田文郎: Kindleストア

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この西田文郎氏を始めとする指導グループがサンリという企業を起していた。
メンタルトレーニングなら株式会社サンリ (sanri.co.jp)

この本を読みこみ、友人に紹介をしてもらって、サンリの門を叩いた。(指導をうけるというよりも、講義を聴くだけ)


そして、このメンタルトレーニングを自己流に解釈し、自己流に伝えていった。
結果的に、長泉高校かるた部は、ワタシの監督時代に2度の全国優勝を果たす。しかし、メンタルトレーニング技術は、その要因の、ほんのちょっとだけ貢献した。それよりも、もっと大きくワタシの生き方に貢献してくれた。
今や、メンタルトレーニングは一つの業界を構成してスポーツ業界をはじめとする様々なところで、競技者(サラリーマンも)をサポートしてくれている。なんと、ワタシの教えた生徒から、プロのトレーナーも出現している。
(1) Facebook 宇佐美円香 さんという方だ。詳しくはFacebookで検索しね。彼女は富士高時代の生徒で長泉高校とは関係ないけれど、ここ2年くらい仕事でお世話になっている。彼女もこのブログの読者の一人なので、プロが読まれている場面で、(ブードゥー教かもしれない自己流)メンタルトレーニング論を書き連ねることは無理がある。

 ただし、少しは他の競技の指導者も高校教員には数多くいて多少は参考になるかもしれない。また、ワタシの行き方に大きく貢献してくれたとあるが、人間を一瞬にして「頼りになる人間」と「あてにならない人間」に振り分けできるのは、このトレーニングノウハウを逆手にとって身に着けているからだと思う。
例えば、「将来の夢は教員です。」と答えた奴に希望はない。教員という仕事は、夢を実現する手段の一つであって、教員になってからが本当の教師への道が始まるのだ。18歳の少年少女が22歳で実現できることを“夢”と語ってはいけない。
 メンタルトレーニングの第一歩は、目標設定なり達成手段なりを、正しく順序だてて明確に構成しなおすことである。大谷曼荼羅というのが流行語になったが、まさしくあの通りだ。
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 こうやって、今できることとできないことを明確にして、出来ることを出来るようにしてメンタルを強くしていくのである。
メンタルトレーニングでは、出来ないことを無理にやらせるのは“脳みその構造”(人間の精神の構造)として全くの逆効果である。何かに取り組前に、人間は知らず知らずのうちに守りに入ってしまい、体(身体)が脳をストップする前に脳(精神)が体を逆にストップさせてしまうのである。おそらく、この脳(精神)と身体の関係を上手に“出来る方向(達成可能な方向”に向けていくのがメンタルトレーニングの理論だ(と解釈している)。


 例をあげる。高校の運動部では、「インターハイ優勝」や「甲子園優勝」を目標として掲げるチームが多い。生徒がその気になっていない、その実力が備わっていないチームが目標を「インターハイ」などをしている時点で、生徒の誰も成長しない。だって成長する理由がないのだから。
監督や顧問の中で、“見栄で”とか、周りの手前上とかで、目標だけ大きくする方がおわれるが、そういう人間はワタシのカテゴリでは、信用できない人間だ。花巻東とか大阪桐蔭だったらその目標も理解できる。甲子園優勝などを掲げるチームは、目標そのものが“言い訳”になっていることがわからないのだろうか?
 
 したがって、(次の例)「お前たち、メンタルが弱いから、メンタルトレーニングを行う」というメンタルトレーニングの導入は、100%逆効果である。頭の構造を「メンタルが弱い」とレッテル貼りしてしまったら、頭(精神)の構造を作り変えるトレーニングをすることはできない。メンタルのトレーニングは、「知らず知らずのうちに鍛えられてくる」ものである。
 その辺にいるでしょ。「メンタルを鍛えろ」と訓示を垂れる人間が・・・・・信用できない人間NO2だよ。
メンタルは、出来ないことが出来るようになって初めて鍛えられるもの(次のタスクもできるようになると錯覚して、その次も・・・その次も・・・)である。「この子はメンタルがダメだから・・・・」という指導者は、「その子ができるようになる技術指導を出来ない」指導者なのだ。
先ほどの登場した宇佐美メンタルトレーナーを伊豆中央高校に招いだ時、一番初めに生徒にやらしていたのは、紙を指先で切る奥義だった。(本人からの指摘があり、本当は、紙で木を切る、でした。


一瞬、どの生徒も出来ないと思ったに違いない。紙ははさみで切るものであって、指で切るものではない。(ここも削除し、さすがに木は紙で切れるわけがないと信じている)しかし、やり方(体の動かし方)によっては切れるのである。「出来ないと思っていたことが出来るようになる」ことから始めるというのは、やはり鉄則なんだな。と20年来の勉強を後付けで証明してくれた。
 このことは、進路指導にも生きていて、「信頼できる奴」と「信頼できない奴」に分けることが簡単にできる。信頼できる奴は、「出来ないことを目標に立てたり、カッコいい目標をカッコよく言ったりする奴」であって、勉強が出来る奴は常に謙虚だ(つまり積み重ね)。


 これらのことから、ワタシは百人一首競技の指導を、「体の使い方、暗記の仕方」という技術指導だけにすることにした。何かが出来るようになれば次が出来るようになるのだ。そして、ワタシ自身は、メンタルトレーニングを(自分勝手に)卒業し、「身体の使い方」に興味が移っていく。(以降の連載をお楽しみに)


 肝心のメンタルトレーニングは、実は競技かるたの世界そのものが、メンタルを勝手に強くしているものだ、と気が付いていた。競技かるたの世界は、競技力の段階によってA級からB級・・・今やF級までにクラス分けしている。F級を卒業しなければE級に昇格できないし、E級を卒業しなければD級になれない・・・・ワタシトて実力でA級には到達した。その級に連動しているのが段位であって、4段以上を一般的にA級選手という。全日本かるた協会の主な収入源もその昇段料にある。
 したがって、A級で何度も優勝を繰り返す猛者たちは、メンタルがとてつもなく強い。もう、メンタルが強いから競技かるたが強くなったのかか、競技かるたが強いからメンタルが強くなったのか、全然考察できないくらいだ。
一般男性諸君「気が強い女」を探したければ、競技かるたの世界に行ってごらん!!!!(このブログの読者には、強豪のA級選手もいるから、文句がくるかもしれない。文句が来た途端、すぐ訂正の連絡をだします)
 ゼロから競技かるたを始めた選手は、A級選手くらいになることで、かなりのメンタルの持ち主となる(少しずつ、実現可能な目標をクリアしていて、自信をもって競技に臨む人間)これは、大阪桐蔭や花巻東のレギュラー選手にもいえることである。そこに上り詰めるだけで凄い。県内の強豪チームの選手が、甲子園に行って実力を発揮できないのは、このステップを上がっていけない典型だ。「県内で優勝」を目標にしている選手は、甲子園にでたとろで目標を失う。
 また、競技かるたは、高校生になって初めて取り組む競技である。(その当時は・・・今や漫画ちはやぶるのおかげで、この前提がくずれた)だから、その学校のs先輩が同じことをやって全国優勝したとなれば、同じことをすれば優勝レベルになるこては当たり前のこととして、次の選手の脳(精神)に植えつけられる。目標設定が楽な競技だ(だった)


 ここまでのことを本能的にやってのけたのが、高校のクラブ活動として競技かるたを育て上げ、その栗栖先生の元で、実際に全国優勝を実現してしまったのが、富士高校かるた部なのである。今から、60年前くらいのことだ。自分が指導者になってみて、メンタルトレーニングなどを勝手に解釈してみて、初めて理解できたことだ。
先生は、対戦相手のことは、強いとは一切言わず、「勝つのは少しかったるい相手だがチャンスがないわけではない」と言いながら選手を送り出していった。自分たちチームを「弱い」とは一切言わなかった。選手として負けても「経験だけの差」とか「運だけの差」と必ず評してくれた。
 長泉高校かるた部は、その栗栖先生が、初代顧問として作り上げた高校の部活動である。生徒たちは入部してすぐに、目標を「全国優勝」として掲げたことだろう。これは荒唐無稽のおとぎ話ではなく、実際にそうだから。(最初の出場は、準優勝だった)栗栖先生は、「ここで優勝したら他の高校に申し訳ない」と口にしていたが、優勝してもおかしくなかった。


 そうして、メンタルトレーニングを勝手に自分なりに(競技かるた風に)アレンジしたワタシは、大きなことに気づく。
全国優勝といっても、インターハイの100メートル競走ではなく、かるた競技の団体戦なのだ。それならば、彼らの到達目標は、案外低いところに設定できる。
かるた競技の団体戦というのは、5人が一斉に一対一の競技として対戦するので、3勝2敗でも勝は勝ちである。別に相手チームに5-0で勝つ必要はない。しかもしかも、この並び順(選手を当てるシステム)は、対戦の直前になってランダムに唐突に決まる。自分のチームは、1番手に●●、2番手に▽▽、3番の場所に◇◇と並び順を申告し、相手チームもおなじことをする。なので、主将(一番強い)と5将(一番弱い)が当たることもあれば、主将が主将とあたることもある。一難力の差が感じられる対戦は、主将VS主将、副将VS副将、三VS三、四VS四、五VS五、なのだが、この確率は、5の階乗、5×4×3×3×1しかない。つまり1/120しかない。逆に、主将VS5将、副将VS4将、三将VS主将、4将VS副将、5将VS三将(この並びが一番大逆転を起しやすい、ジャイアントキリング並び)だって、確率的にはありうるのだ。


 ならば、先ほどのメンタルトレーニングで述べた、「目標可能な到達目標」は、全国優勝ではなく、全国優勝にならぶ実力とすればいいだろう。しかもしかも、競技かるたの競技としての最大の特徴は、大接戦の最終形態が一枚VS一枚(通称イチイチ)になることだから、どんなに実力差があっても、二勝二敗最後はイチイチという展開になる。そうなれば50%の確率で勝つことができる。全国優勝は一番素晴らしい栄誉だが、全国優勝が目標ではなく、全国優勝を50%の確率まで引く出せるレベルが目標なのだ。
 この気づき以来、自分の指導する部活の目標を「全国選手権の決勝戦で、二勝二敗最後はイチイチ」のレベルまで引き下げた。
これで、相当楽になった。生徒も理解しやすかったと思う。
そして、たった全国で8校というレベルで始まった高校かるた競技世界は、ワタシが長泉高校を去るころから、勝つのはそれほど簡単ではないレベルに上がっていく。特に静岡県内の某高校の台頭がすさまじかった。


 他の競技にでも、同じことで、「強豪校と大接戦、あとは運」というのが、一番の(高校生らしい)到達レベルである。
そして、監督は、メンタルのことを絶対に勝因、敗因にしてはいけない。強いメンタルを作り出すのはこの技術が習得できているという自己の身体であって、メンタルの弱い競技者の出現は、その技術を習得させることが出来なかった指導者の技能と責任である。


 と、定年を迎えるまで書くに書けなかった部活動の指導について書いてみた。
簡単に言えば、「出来るようになる指導をしてくれる指導者」が一番素晴らしいのである。ワタシが出会ったリトルシニアの指導者や、長年静岡の県内中学の吹奏楽で指導してきたS山(読者よ)、自らも声楽家として活躍しているK藤、今のI豆中央の男子バレー部コーチのZさん、とかね。


 今日は、再任用ハーフで4月から採用されることになった、清水西高校に午後から出張でして、なんとブログの更新時刻は11:00!!!!






























 












































Received — 2024年3月24日 tommy先生の「世相を斬る」

還暦老人連載企画に戻る

著者: tommyjhon
2024年3月24日 08:25
全国の毒舌ファンの皆さま おはようございます。Tommyセンセです。

 とうことで、伊豆中央高校の教員生活もあと1週間。ワタシは静岡県富士市出身富士市在住でありながら、教員キャリアとして、沼商3年、長泉8年、伊豆中央3年と、この伊豆半島の付け根付近で14年も過ごしたことになる。清水東にも8年在籍した。今度の異動では清水西となり、どうも富士富士宮地区に嫌われているようだ。静岡県民は、ワタシの通勤手当を負担してくれてましたが、そもそも通勤手当を多く出すような人事に問題ありだと思うがねぇ・・・・


 この伊豆半島の付け根付近でも、一番の思い出はやはり長泉高校である。
もうかん口令はひかれていないと思うので、暴露話をひとつ。
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静岡県立静岡がんセンター - Google マップ

 まずは、静岡県立しずおかがんセンターで、Googleマップを検索。その少し南に静岡県立長泉高校跡碑がある。そこから北に向かうと、スルガ銀行が中心となって開発した別荘地が広がり、中心にスルガ銀行本社ビルがある。この辺りを一般的には駿河平と呼んでいるが、静岡県の地方銀行の一つ、スルガ銀行の本拠地でもある。
 今から、23年前、(あとで、なぜ23年前と正確に覚えているのかがわかるのでお楽しみに)このスルガ銀行の本拠地である駿河平一帯を異様な数のパトカーがうろうろしていることがあった。もちろん、その入口でもある我が長泉高校の前にも数台のパトカーが警備に当たっていて、長泉高校の職員内では、Tommy君が一番の容疑者であると騒がしかった。(ワタシが潔白であることを証明できないのが辛い)

 その頃から、政財界の裏事情に詳しかったワタシは、(今でも正体を明かせない)消息筋から、「皇太子妃(当時)雅子様が、静岡県東部のとある病院で不妊治療を受けている」との情報を得た。皇太子妃、「雅子様」は下から読んでもマサコサマだ。お前ら気づいているか?
そして、雅子様の治療中の滞在が、この駿河平にあるスルガ銀行のVIPな迎賓館であると推測された。だから、パトカーの数が異様に多いのであろう。この過剰警備は、年に数回あったと記憶している。今春、愛子様が学習院大学を卒業された。超個人的に“喜びも一入(ひとしお)”


ということで、
まだまだ、思い出話は尽きませぬ。


ワタシに皇室系の興味を持たせた代表的な著作は、
ミカドの肖像(小学館文庫) (小学館文庫 い 7-2) | 猪瀬 直樹 |本 | 通販 | Amazon

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と、
天皇財閥
天皇財閥: 皇室による経済支配の構造 | 吉田 祐二 |本 | 通販 | Amazon

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天皇財閥: 皇室による経済支配の構造 | 吉田 祐二 |本 | 通販 | Amazon



の2つだ。
では、本日野暮用で静岡に出かけます。
Received — 2024年3月22日 tommy先生の「世相を斬る」

還暦老人ホントに退職する

著者: tommyjhon
2024年3月22日 05:21
全国の毒舌ファンの皆様 おはようございます。Tommyセンセです。

ということで折からの出版業界不況で、ワタシ達静岡県民の年の楽しみだった、静岡新聞夕刊が廃止された。それにともなって、昨日の「静岡県教職員人事異動」もネット上のみで発表された。
静岡県教職員異動|あなたの静岡新聞 (at-s.com)



ご心配なく、ワタシの名前もしっかり出ています。
【教職員異動】静岡県教委・高校一般教職員|あなたの静岡新聞 (at-s.com)



スクショ
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 我々の同級生たちは、高校生人口急増期に採用されたので、もっと退職年齢の奴は一杯いるのだけれど、みんな定年延長でもう1年くらい頑張るのだろう。(退職)の数が案外少ない。


 ワタシは高校教員として、様々な学校でエネルギーを使い果たしたので、ここで退職。
これからは、月々の「携帯契約料、ガソリン代、電気代、おやつ代」などを稼ぐためだけに、再任用ハーフ教員として1年間契約で教員だけを続けます。
(給与は、ハーフではなくて、1/3とか1/4のレベル)


勤務校は、なんと!!!!!!!
清水西高校
ここだけの話、静岡大学時代に2回くらいデートしたことのある●●ちゃん(名前は忘れた)の母校です。確か彼女は弓道部だったはず。


静岡市清水区で全国的に一番有名な学校は、清水東高校(内田篤人の母校だからねえ)で、その次に有名なのが清水桜ケ丘(旧清水商業)高校で、その清水桜ケ丘高校の隣にあるのが、清水西高校です。
まっ、お暇ならば遊びに来てください。


この頃、一部のコアな読者から、
「離任までに、連載が終わらない」と心配されておりますが、その通り終わりません。
連載本編は、未だに長泉高校でして、これから富士高編、清水東編、伊豆中央編と続き、清水西編で合体するまでかなりの日数がかかります。
でも、お陰様で、ヒット数は確実に増え続け、ワタシのブログとしては「清原和博、覚せい剤で逮捕」のスクープ以来の好成績をあげています。


読者の皆様、清水西高校でも、よろしくお願いいたします。
(サレジオにいる●●君は挨拶に来いよ)


Received — 2024年3月21日 tommy先生の「世相を斬る」

還暦老人長泉高校かるた部を語る

著者: tommyjhon
2024年3月21日 05:39
全国の毒舌ファンの皆様 おはようございます。 Tommyセンセです。

ということで、今回は長泉高校かるた部のお話。
今はなき、静岡県立長泉高校(静岡県立長泉高等学校 - Wikipedia)は、ワタシが赴任した時に、すでに高校かるた日本一の栄光に2回も輝いていた。
ネット上で詳細な記録がないので、ウィッキからのスクショ
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全国高等学校小倉百人一首かるた選手権大会 - Wikipedia

(実は、この大会の30年記念誌はワタシが作成していて、探せばどこかにあるのだけど、見つからない)


ワタシが赴任した最初の年は、1993年(平成5年)で、写真のように大井川高校が優勝し、我が長泉高校(玉沢、大島の代)は決勝で負けた。(全国大会のだよ)
そして、ここまで長泉高校を強くした嶋先生はこの年を最後に長泉高校を去り、(嶋先生の、そしてワタシの)母校、富士高校に転任していった。「ここからは、お前に任せたよ。ワタシは弱体化した母校富士高のかるた部に行くからね」というていで去って行った。
「まあ、不安がないこともないが、やるしかない」と長泉高校かるた部を率いることになった。スクショでもお分かりのとおり、この当時は、「静岡県が高校かるた王国」であって、静岡県で優勝していれば全国大会で勝つことが出来た。ライバルは、富士高、大井川高校で、この大井川高校を率いていたのが、名伯楽竹中先生だ。ワタシのライバルと言っていいが、年齢的には4歳上の方で、名門藤枝東高校から筑波大学を経て静岡県の教員になられた方である。百人一首かるた競技とは筑波大学時代にであったらしい。(体系的にもライバル関係にあった)、この後、静岡双葉高校や浜松北高校が台頭してくるが、それはもう少し先のことである。


 そして、ワタシが単独で率いた初年度も全国大会の決勝まで進出した。(田村・牛田・岩代などが中心選手)でも、またもや決勝で負けた。
次の年(山田瑞枝、村上あやねなどが中心選手)も、全国大会に行ったが、準決勝で大井川に負けた。
つまり、ワタシは勝てなかったのだ。
 そして次の年(1996年)は静岡県予選で負けた。予選を突破したのは嶋先生が新たに顧問となった富士高校で、その富士高校は全国大会でも圧勝した。
この世代は、ワタシが1年生から担任をした世代なのだが、かるた部員がほとんどおらず、朝日孝典君とリントンラスジン君だけが頼りになるという苦しい世代だった。
この頃、「シルバーコレクター」(銀メダル集め)と自嘲気味に言っていたが、人生で一番もがき苦しんだ時である。
 
 競技かるたは、伝統的なスポーツではない。競技かるたとしての正式なルールが確立されたから100年くらいしか経っておらず、その後も、全国各地に愛好者団体が出来るものの、全国的な認知はそれほどでもなかった。それを、ここまで有名にした一翼を、「全国高等学校かるた選手権大会」が担っていると思う。また、全国高等学校文化連盟に加入したことも大きな飛躍を遂げた要因の一つだ。この文化連盟に加盟したことで、インターハイのように全国各地で開催される“全国高等学校総合文化祭”(文化部のインターハイ)で必ず小倉百人一首かるた競技が開催されることになった。


 つまり、この全国大会の開催なければここまでの隆盛なかったことになるが、たかだかマイナー競技の一顧問であったワタシは、この2つの全国大会の主催者となっていく。今かるた部の指導を離れ、(部活指導者としては)ぐうたらな仕事しかしていないが、30代から40代にかけて、この小さな組織を様々なしがらみの中で事務局長として運営してきたことが、学校の中間管理職としての仕事に生きているのだと思う。


 長泉高校の時代には、静岡県高校かるた連盟(のちの静岡県高等学校文化連盟専門部)の事務局長になっていて、組織運営の難しさも学んでいった。
また、競技かるたの選手としてそれほど強くなかったので、どのように練習をすれば強くなるのか?も真剣に研究した。


誰も気が付いていないだろうが、このブログの書き方は、海老沢泰久という作家に似ている(似させている?)
 海老沢泰久 - Wikipedia

また、長泉高校時代、一気に日本のメジャースポーツとなったのがサッカーで、そのサッカーノンフィクションの第一人者は金子達仁だった。
金子達仁 - Wikipedia



 競技かるたといえど、競技に勝つという仕事はいかなるスポーツを超えて不変である。
紹介した2人の作品でワタシは勝つという方法を学んだ。広岡達郎とか、中島悟とか、川口能活とかの思考と思想は、どの競技でも普遍的にただしいのだ。


 長泉高校で苦杯をなめ続けていた時に、かるた部に新入生として入ってきたのが、一藤木さんを中心とする気が強い女学生達である。そして、この次の世代で富田君が入部してくる。この2つの最強世代(だって2連覇したのだよ)を育てたのが、全国大会にも行けなかった朝日先輩である。
一藤木さんの世代は、富士高校も強く(暁星高校や島根県益田高校も強かった)、全国大会には行ったものの優勝は難しいだろうと周囲からは見られていた。最大の心配は、外山という監督であって彼は日本一になったことがない。


 ところが、この長泉高校かるた部は、全国選手権の準々決勝で富士高校を破り、準決勝で暁星高校を破り、決勝で益田高校も破り、あっという間に優勝してしまった。
そして次の年も富田君や水野君を中心にまたもや優勝してしまった(準優勝は富士高校)。
あれほど、勝つことに飢えていたワタシと長泉高校かるた部は、なぜか、もう一度優勝旗を奪回していたのであった。
単純な理由は生徒に恵まれたことであって、この時は2世代にわたって超高校級の選手がそろったのだ。


 この絶頂期、だんだん競技かるた以外のことも忙しくなっていく。
次回は、長泉高校時代の部活以外の話です。(離任式までに連載が終わるかどうか心配になってきた)














Received — 2024年3月20日 tommy先生の「世相を斬る」

還暦老人最後の終業式

著者: tommyjhon
2024年3月20日 06:13
全国の毒舌ファンの皆様 おはようございます。Tommyセンセです。

 ということで、昨日が伊豆中央高校の3学期終業式。ワタシが小学校時代は3学期の終業式のことをわざわざ言葉を変えて、修了式と言っていた気がするが・・・・今はどんな時も終業式。
 お陰様で、何とかここまで辿り着くことができた。我が高の終業式では、最後に「三課長の話」なる儀式があって、教務課長・生徒課長・進路課長の順で講話をたれる。いつもは、(某F高後輩で野球部監督の)生徒課長が、いろいろな“有難い話”をいかにも生徒課長らしくお話しなさるので、ちょっと霞むのだが、今回はワタシが最後というので遠慮してくれて短く終わった。
 お陰様で、一番言いたいことを熱く語ることが出来たので、ここでご披露する。
(好評連載中の「還暦老人の教員人生は、一回休み)



以下、忠実に再現。


 今年の受験結果は、本当に素晴らしいものになりました。君たちの先輩方は本当に頑張ってくれました。結果としては、この時点(まだ、国公立の中期&後期が発表されていない)で、国公立大学の合格者61名、中には旧帝大名古屋大学の合格を勝ち取った生徒もいますし、筑波大学に合格した人もいます。(静大は10名でした)私立大学の結果も近年にない好成績で、主要大学は早稲田、東京理科、明治~関関同立、津田塾東女日女・・・と慶応、学習院、青学以外はほとんどの主要大学に合格しています。青学だけは苦手で合格できないので、陸上部長距離の生徒は来年ぜひ青学に合格して箱根を目指してください。(伊豆中央の部活で一番活躍しているのは陸上部でありインターハイの常連でもある。したがって、昨年、一昨年と筑波に推薦&AOで合格してはいるが、昨年の1名と今年の1名は一般受験である)


 こんなに素晴らしい受験結果が出たことには理由があります。主な要因は3でしょう。
①少子化で大学受験の生徒が減少し、少しずつ簡単になっていること。
②生徒が一生延命努力したこと、特に2月の学習量が格段に増えました。普通の進学校ならば2月なんてもう諦めてしまう時なのですが、生徒は、2月に数学と理科の実力がグッとアップしました。これが国公立理系の合格者を増やした直接の原因です。
③先生方も一緒に頑張ってくれたこと。今年の先生方は本当に様々な面で生徒と向き合い、受験校選びに付き合い、添削に付き合い、面談指導に付き合い、解答作成に付き合ってくれました。


 ワタシは、20数年、進学校でこんな仕事をしていて今年で定年です。いい気分で定年を迎えることができます。今年で定年なので、今まで数多くの受験生を送り出してきましたが、この送り出してきた生徒たちとは、どのような感情で付き合っているのかをお教えします。彼ら彼女らを「教え子」と呼べません。彼ら彼女らは「戦友」なんです。先生も受験生と一緒に戦ってきているのです。なので「戦友」。
毎年のことですが、3年生を担当すると次の年に1年生を担当します。そうすると先生方も一緒にバカになります。すぐに1年生を教えるレベルに戻ってしまうのですね。その1年生を教えるレベルから、君たちと同じように学問レベルが少しずつ上がってき、先生方も生徒に最適な教材を考え、その時期の生徒に最適な指導法を考え、最適な課題を考えて一緒に学問レベルを上げていくのです。だから、一緒に戦っていく「戦友」


 「戦友」って友達を裏切りません。戦場で友を裏切ったら、それは「死」を意味します。戦友って一緒に生き残るのです。
この終業式を迎えた2年生の皆さん、先生と一緒に仲間となって、戦友となって1年間を過ごしてください。1年生の皆さん、2年間を戦友とともに過ごしてください。


 僕(先生方)たちは、裏切らないよ。


<終了>


そして、(他の先生方から)いろいろなお世辞を頂きました。ありがとうございます。
生徒、先生方には、思いの全部を話したつもりなので、もう悔いはありません。最後に残っている離任式の話は、思いっきりくだらない話をして、思いっきりすべろうと思います。これもお楽しみに・・・・一般の方も離任式に来ていただいていいですよ。(28日の9:00頃からです)
Received — 2024年3月19日 tommy先生の「世相を斬る」

還暦老人「かるた部顧問となった時」を語る

著者: tommyjhon
2024年3月19日 05:44
全国の毒舌ファンの皆様 おはようございます。Tommyセンセです。

ということで、好評連載中の思い出を語るの記。
 ここからは、競技人口的にみると相当マイナーな競技である、「小倉百人一首かるた競技」(略して競技かるた、ただのかるた)に関する記述が多くなる。無関係な読者の方が圧倒的に多いかもしれないが、そもそもワタシがHP(ホームページ)を始め、途中からブログに移行しながらもかれこれ20年間もキーボードに文章を打ち込んでいるきっかけは、「全国の富士高かるた部のOBOG達に、現役部員の活躍を伝えたい」との一念であった。なのですべてが関連付けられるものであるから仕方がない。


 ワタシは富士高かるた部の第12代目の部員であって、当時の静岡県立富士高校かるた部は、名実ともに日本一のかるたクラブだった。昭和の時代、高校でかるた部なんて活動が全国的にそれほどあるわけでもなく、富士高の目標は、全国職域学生かるた選手権大会(職場のチームや大学生チームを相手にする団体戦の全国大会)であって、この大会に10回優勝していた。在学中に「全国高等学校小倉百人一首かるた選手権大会」なるものが設立され、大会運営するかるた会の重鎮たちは、この大会を「畳の上の甲子園」と位置づけようとしていた。今や、どの業界でも存在する“●●の甲子園”という名称の嚆矢となった大会でもある。この全国大会の第一回大会は私が高校1年の時に初めて開催されたが、その時の参加校はわずか8校、参加するだけで全国大会ベスト8だったのである。どれだけマイナー競技かお分かりだろう。結局、静岡県立富士高等学校はこの大会で初回から10連覇を果たすことになるのだが、この連覇を阻むのが、これから登場する(今はなき)静岡県立長泉高等学校だったのである。
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(ネットで拾った今は亡き長泉高校)


 さて、時計の針を逆戻りさせて初任高であった下田南高校3年目の3月に話を戻す。ワタシ達夫婦(この時はまだ結婚していないけど)は揃っての転勤を希望した。相方は養護教諭であって、高校では必ず1名いる保健室の先生である。どこにでも需要がありどこでも仕事が出来る。我々教員は、「部活動の指導がしたい」と考えて教員になる者が半数以上存在し、その部活を指導することが教員生活何よりも大事なことだった。今やこの比率がどんどん低下して、部活拒否の教員の方が多いくらいなのだが、ワタシが採用された時代はバブル真っ盛りで他の仕事もうじゃうじゃあり、初任給も数段高かった。ではなぜ高校教員なのか?この答えを部活抜きで探すのは困難である。高校に戻りたいのではなく、部活に戻りたかった。これから何回もでてくるが、富士高校百人一首部はそれほど魅力的であったのだ。


 ワタシは、当然、(実際は沼津商業なのだけれど)富士高校に転勤するものとばかり思っていた。その理由は、全国選手権連覇中とはいえ、当時富士高校は、創部から10年以上率いてくれた指導者(これが栗栖先生)が転勤されて以来、本格的に競技かるたを指導できる教員が母校に赴任していなかったからである。ワタシはもちろんそのことを自覚していた。したがって、うちの奥さん(当時はまだ婚約中?)が富士からそれほど遠くない場所であったら嬉しいなあ????と想像していた。
ワタシの先輩で、本格的に競技かるたを指導していたのは4つ先輩の嶋先輩(現、静岡県かるた協会会長・元某F宮西高校校長)だが、嶋先輩は一足早く、競技かるた部のある長泉高校で指導を始めていた。この長泉高校とは、静岡県東部地区の長泉町(現在は移住したい町のベスト10に輝く、三島駅近隣の町)に新設された高校で、恩師栗栖先生(もうイニシャルトークでは混乱してしまうので本名)が学校創設以来関わっていた高校である。栗栖先生がかかわるのならかるた部が出来るのは当たり前だ。栗栖先生の偉業は一冊の本にまとめられるべき多さであって、その一つが、「転勤された学校でかるた部を作りまくった」ことである。沼津市立高校・富士高校・沼津東高校・(元)長泉高校と創部しまくり、次の転勤で教頭先生になっていった。(ここからはさすがに無理)。
(元)長泉高校は、栗栖先生が創部され嶋先生が2代目顧問となっていたのである。


ところがだ、下田南からの転勤で、2人に渡された辞令は驚愕のものとなった。転勤するはずの富士高校の養護教諭に女房(まだ結婚していないけど)がなり、ワタシが沼津商業というのである。
「えっ?」
「あっ あっ そうなんだ」
結果的に奥さんの勤務校(沼商時代に結婚した)となった富士高校は、我が家においてもかけがえのない高校となり、長男は「養護の先生に初めての赤ちゃん!!!!!」という見出しで富士高新聞(これも有名、一時期私が顧問を務めたこともある)に載せてもらった。その後、彼は富士高校に進学することになる。この長男アロー君は、高校入学もしていないのに富士高の内情を良く知っているマセたガキに成長していった。次男殿も「養護の外山先生に2人目の赤ちゃん!!!!!!」となって富士高新聞に載せてもらった。次男殿は、我が家での会話で多くなった「八木話」(ワタシが富士高時代にともに勤務した、伝説の野球部監督にまつわる話)の影響を受けて高校野球で甲子園を目指すことになる。


 そしてワタシ。沼津商業時代、剣道部を任されていた。もともと他の部活(競技かるた以外)に興味のないワタシが、部活指導に熱がはいるわけなどなかった。しかも、長い経験がものをいう武道の世界である。部活には他の若手教員と比べて没頭できずにいた。剣道部の顧問といえど道着を着ることもなければ面や胴をつけることもなかった。当然、中学生を勧誘することもなく、中学から志望されることもなく、(昔はインターハイにも行っていたらしい)沼商剣道部は弱体化していった。沼商にワタシのいる場所はない。
 そんな悶々とした日々を送っていた3年目(3年とは移動できる最低期限で、3年たつと移動の対象になる)、嶋先生からは強烈なオファーをもらっていた。「長泉高校で一緒に顧問をやろう!!!!!!」
これは、ワタシにとって魅力的な誘いだ。だって、夫婦は同じ学校に勤務できないというルールがあり、その時点で競技かるたを指導できる学校は、沼津東か長泉高校しかなく、誘ってもらえるのは幸せの極致だったのだ。
3年目の冬、周りには黙って“転勤希望”を書いた。当時は20代の若手教員であって、1年生の担任をしていた自分を、周りの同業者たちは「転勤できるはずがない」と思っていただろう。ここでの転勤は裏切り行為である。ワタシもそんなことは無理だろう。転勤できるわけがないと確信していた。


 ところがだ、いざこの時期(本当に3月中旬の今の時期だ)に校長室に呼ばれ、「長泉高校に転勤だよ」と告げられる。
これは、相当な力学が働いたのであろう。噂には数々上がり、業界中枢部では当然のように行われ、ただし誰も存在を公的には認めていない、あの「人事上の力学」という作用に違いなかった。ワタシは、“引っ張られた”のだった。
後日、恩師栗栖先生(教育業界中枢の人になっている)からは、「あの時は、相当強引だったなあ」「K先生(当時のN高校校長)も思い切った手を打ったなあ」とだけ言われたことがある。


 そうして沼商を逃げるように飛び出し、念願の(かるた部のある)長泉高校に転勤する。しかも、先輩の嶋先生も一緒だ。一番いい形の若手指導者として迎え入れられた。新設の長泉高校は若手教員の数も多く、教員間のお付き合いも楽しかった。
さて、そんな形で競技かるたの世界に復活したワタシは、恒例の4月29日、さがみの大会A級にエントリーし、顧問としてだけでなく競技者としても復活する。別にそれほど強い競技者ではなかったが富士高かるた部出身者としてワタシの顔をしっている方は多かった。(なにせ、競技人口の少ない世界なので)
このさがみの大会の1回戦の相手が東村亜子さんだった(長泉高校OGで、長泉高校を2度目の全国優勝に導いた伝説の名選手)。これも何かの縁だなあ。


 さて、このさがみの大会で大きな出来事が起きる。
部活動にそれほど熱心でなかったワタシは、常に遊びのことばかり考えていた。得意はスキーを代表とするアウトドアで、スキーのオフシーズンには、マウンテンバイクも2台そろえ、カヌーも手に入れていた。
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マウンテンバイクはこのタイプ(ヤフオクの画像を拝借)見出しは)90年代のオールドタイプとあった。
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このカヌーも購入していた。


 長泉高校かるた部の引率第1回目、赴任してすぐのさがみの大会。生徒は三島駅から電車に乗り藤沢駅で小田急線に乗り換えて会場に向かう。ワタシは、住んでいた(富士高の教員住宅)場所から、このマウンテンバイクに乗って富士駅まで向かい、三島駅で生徒に合流した。
かるたの大会は勝ち続けると帰りが(異様に)遅くなり、その日も、富士駅に着いたのは11時ごろだった。
そして、駐輪場に行ったが、肝心のマウンテンバイクがない。チェーンをつけたはずなのにマウンテンバイクがない。交番の人は、盗難届を受け付けてくれながら「このタイプは人気がありますからねえ」と半ばあきらめ顔で淡々と盗難届を受け取った。


 こうして、かるた部の顧問生活に入るとともに、「お気楽レジャー教員」の夢を捨て去ることになる。
マウンテンバイク(15万くらいした)もそうだが、カヌー(30万円した)からも離れざるをえなかった。


そうして、家庭での子育てを無視した「部活だけの教員人生」が始まることになったのだ。


























































Received — 2024年3月18日 tommy先生の「世相を斬る」

還暦老人生徒指導を語る

著者: tommyjhon
2024年3月18日 05:50
全国の毒舌ファンの皆様 おはようございます。Tommyセンセです。

ということで、時間が空いたけれど、教員人生を振り返るの記。


 下田南高校定時制教員を3年やったのち、縁あって静岡県立沼津商業高校へ転勤することになった。結果的に、沼商には3年間しか在籍せず、しかも、副担任→3年担任→1年担任と、途切れ途切れの仕事になったので、それほどの思い入れもないまま去ることになった。現在の学校で当時の生徒だった子が母親となって、その子供とは3年間過ごしたのが救いだ。
 3年目に突如、政治決着のような形で転勤したので、誰からも祝福されなかった。クラスの生徒はそのまま残し、残った教員からは白い目で見られた(と感じた)。離任式後の送別会も笑うことはできずに(逃げるように)去って行った。転勤した理由は次回になるだろうが、惜しまれない転勤は二度としたくない、と決意したし、転勤は内緒でしてはいけないとも思った。事実、その後の転勤は明快に“転勤します!!!!”と振舞った。


 沼商で勤務していた頃、嵐のように平和な学校を襲ったのが、ルーズソックス旋風である。 
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 今となってよく考えると、なぜこんな反機能的な靴下が流行したのかよくわからない。しかし、平成の始まりのころは圧倒的に女子高生の心をつかんでいた。しかも、ルーズソックスには短いスカートがつきものなので、女子の“タンスカ”も同時流行だった。


 そして、教員と高校生の、服装指導追いかけっこが延々と続くことになっていった。
当時、服装指導(生徒指導)が、しっかりできる先生は(先生内部の評価として)「いい先生」であって。違反の服装をしている生徒を、ほったらかしにしているとダメ教員とされた。
「生徒の指導もできないで、何が先生だ・・・・・・・」という悪口・陰口がどこからも聞こえてきた。
ご想像通り、ワタシは生徒指導も服装指導も好きではない。そもそも生徒を型にはめることも好きではないし、生徒が教員の指導で心を入れ替えることはない、と思っている。


 ワタシの服装指導基準で言えば、その服装が、「似合っているか否か」「お洒落か否か」「TPOに沿っているかどうか」が服装の規準であって、制服の着こなしがキレイだったらそれでいいと思う。ルーズソックスで言えば、この靴下は、人間の美しい曲線の一つであるふくらはぎからくるぶしのラインを隠すので、美しいラインを持っている女性にはむしろマイナスである。との結論である。


 このような信条なので、服装指導などやりたくもない。この当時、同じことを思っていた教員は多くいたと思う。服装指導をしている理由は、先輩教員に怒られたくないし、陰口をたたかれたくもないからであって、服装を指導すれば生徒が成長するとは微塵も思っていなかった。
しかも「服装の乱れは心の乱れ」などという、厄介なキャッチコピーで学校が飾り付けられていた。
 そもそも若者の心はいつも乱れているものであって、服装が乱れている生徒は、自分の内面の心の乱れを素直に表出している“いい生徒”である。形だけにこだわって人間を決めつけるものではない、と思うのが普通の人間だと(内面では)反発していた。
この服装指導に何しては、もちろん賛否両論があり、当時、服装指導に教員生命を賭けているようなオーラを醸し出している先生も少なからずいた。そして、その先生の心は純粋であったと思う。とにかく制服をしっかり着用させるのだ、という信念に盾突くことは出来ない。加えて、服装指導をしっかりしている先生って、本当に教員らしい。この立派さを否定できるものでもない。でも、教員になった当時から抱いていた違和感は、今でもなくなることがない。
 こんな生活をしている(自分の気持ちとは裏腹に生徒を押さえつけるような指導)と、体の変調をきたしてしまうぞと感じた時でもあった。


 今の生徒たちは本当に大人しくなり、服装の乱れとかで指導をされる生徒は極端に減った。学校の偏差値レベルの話ではない、(昔は、荒れているという評判がたった)頭のデキの悪い学校から、多少勉強が出来る学校のすべてで、生徒は大人しくなった。これは極論だが、生徒が大人しくなったのと日本が衰退していく流れは一致している。他にも思い当たる節がある。今の生徒たちは、運転免許をとることにさほど関心を示さなくなった。バイクにも乗りたくないらしい。様々なことに対する欲望の塊(異性と付き合いたいとか、スピードを追求したいとか、金持ちになりたいとか・・・・)であるはずの若者はどことなく大人しくなった。


 教員が、生徒を型にはめる指導をくりかえしたばかりに、こんな日本になってしまったとはいえないか????(あくまでも還暦老人の回顧録ね)
今、生徒の中には、「社会福祉」について勉強したいと思う子供たちが一定数存在し、その類の分野を学ぶ学部・学科も存在するのだけど、こういう生徒や学部学科があることすら違和感を覚えてしまう(他に興味はないのかよ?)。
 いやいやながら生徒指導をする時代を懐かしむわけではないが、生徒をとことん従順にさせた日本の教育には賛成できない。



 別に当時の沼商を否定するわけではない。そういう時代だったのだ。
次回は、逃げるように転勤した顛末について話します。




Received — 2024年3月15日 tommy先生の「世相を斬る」

教育コングロマリットB社

著者: tommyjhon
2024年3月15日 05:40
全国の毒舌ファンの皆様 おはようございます。Tommy センセです。

ということで、好評につき連載中の自伝っぽい文章を棚に上げて、昨日の慰労会報告。
社内にも読者が多いとのことなので、公開で御礼<m(__)m>


定年の慰労会をしてくれたのは、日本一の教育コングロマリットであり、“シマジロウから墓場まで”で日本人の教育を厚かましいまでに世話をするBネッセ社の歴代担当者さん達。
計3人の方が、本拠地名古屋(支社)からわざわざ富士に駆けつけてくれた。
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ここまで準備してくれて本当にありがとうございました。


 時々、Bネッセ社のことを学校で「癒着」と表現されるけど、ワタシにとっては、よき戦略パートナーであって、よき戦友。友達(戦友)なんだから、自民党安倍派のような裏でドロドロとしたやりとりは絶対にない。
 いつも、担当者殿と、このデータは使えるのか使えないのか、この教材は使えるのか使えないのか、それだけをディスカッションしていた。戦略パートナーなんだから、勝てる武器になるものはすぐにいただく。


 使えないと判断したら使わない。
ワタシは、B社のクラッシーという総合ITシステムを使えないと判断して導入しなかった。GTECという英語能力検定も“少し危険”と判断して使わなかった。(どちらも正しいと思う)


 使えそうだと思うと使う。
B社の面々には、今後教材として伸びそうなのは、オープンチャット機能だよ。さりげなくアドバイスした。
 年の差は30歳以上もある奴らだけど、友情によって結びついているのさ。  



今のB社にそれほど文句はないが、あえて言わせてもらうのなら、未だに教育営業担当は男ばかり。男女共同参画社会とはかけ離れている職場でもありました。某ライバルRクルート社のスタディサプリの担当は、大谷翔平の奥さんばりの美人。
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・・・・このままいくと負けるよ。
ワタシは再任用で、某●●●高校に来年お世話になることが決まったので、「そこんところヨロシク」


















Received — 2024年3月14日 tommy先生の「世相を斬る」

還暦老人下田南校からの沼商時代を語る

著者: tommyjhon
2024年3月14日 05:37
全国の毒舌ファンの皆様 おはようございます。Tommyセンセです。

ということで、ヒット数を見る限り“好評につき続編”。


 定時制勤務で始まった教員生活をなんとか全日制勤務に戻そうと定時制生活3年目迎えた。教員は最低3年は同じところで勤務しなければならない掟があるので、その最低年数はここでクリアできる。しかも、当時は大きな味方もいてくれて、彼女(今の奥さん)も、隣の学校で3年目を迎えていた。同時に転勤させてもらわないと結婚できない!!!!!と2人で訴えれば何とかなるだろう。


 そんな3年目に、「人生の師匠」ともいうべき偉大な人物が定時制の教頭として赴任してくる。
 故北山家麿先生だ。名前から察して欲しいが、伊豆半島東海岸のある神社の神主さん(兼職中)である。今、ワタシが勤務している伊豆中央高校から転勤でやってきた。最後の教員生活を伊豆中央高校で迎えるのも何かの縁だなあと感じている。故北山家麿先生には、結婚式の仲人(なこうど、昔は結婚式を挙げる場合は形式的にもお仲人さん夫妻を立てなければならなかった)もやってもらった。この北山センセ、部下の作った書類をほとんど見ない。教員とて官僚の端くれなので、いろいろな報告書の類を、ハンコとともに回して提出しなければならない。今までの教頭先生は、我々若手教員が作成した文書類に細かく目を通してハンコを押したけれど、北山先生は、完全にメクラ判(差別用語として禁止られていますが、文書の芸術性や伝統に配慮して使用を許可します)である。教員生活2,3年の若造が作る書類なんて、ミスが多いのは当たり前なのだけれど、北山先生はほとんど見ない。勇気を出して、「なぜですか」と問うと、
「俺が細かくチェックすると、若い奴が怠けるから、人間が育たないんだ。県教育委員会に謝るのは結局俺(教頭)だから、育てるためには見ない方がいいんだよ」と話してくれた。我々若造教員は、背中がゾクッとなり、背筋が伸びた。結果的に(人生様々なことがあって、教員として管理職にはなれなかったが)この姿勢が晩年のワタシを貫くことになった。教員って信用することが一番の仕事であって、その責任は、信用すると判断した自分にだけなんだ。
ただ、北山先生が書類を見ないのは、毎日が二日酔いだったことが原因かもしれない。


 今は、もう時効なので、話してもいいだろう。お酒が強かったワタシは、定時制勤務後北山先生に誘われることが多かった。同じ社会科の教員でしかも(ワタシも)生意気だから話題に事欠かなかったからだろう。当然、下田駅前で一杯飲むことになり、北山先生は電車に乗って伊東まで帰るのである。その内、幾度かは一緒に終電に同乗する。伊東の行きつけの寿司屋(スナックとかも)に行くのだ。どうせ次の日も午後から勤務なので、全然大丈夫。
 ある日、ある時、故北山先生が、伊東駅から自家用車で家に帰ると言い出した。もちろん、酔っぱらっている。どうやら次の日に自動車を使う予定があるらしい。「飲酒運転だから止めましょう」とワタシは先生を諭した。でも、先生は言うことを聞かない。諦めて先生の車に同乗して帰ることにするが、何と発車した直後から後ろをパトカーがついてくる。同じスピードでずっとついてくる。とうとう家の駐車場まで付いてきた。この場合、飲酒運転の北山先生は捕まるが、ワタシはどうなるのだろう?そんなみみっちいことを考えていたワタシは急に恥ずかしくなった。


 「北山先生ですね。伊東警察の〇〇ですね。●●高校の時にお世話になりました」「先生が事故を起さないように自宅までパトロールしておりました」「では、これで失礼します」と警察官は挨拶して去って行った。北山先生は「おおっ、ありがとさん」とだけ答えた。
そしてワタシは、こういう先生にワタシもなりたいと思ったが、こういう先生は二度と現れず、他の人は絶対にこういう先生になれない。と考え直した。
その後30数年、北山先生を超える管理職に最後まで出会うことはなかった。


 ということで、その3月にお目出度く私たちは2人そろって転勤を果たす。定時制という仕事場以外は楽しかった下田から離れることになった。
転勤先は、彼女(今の奥さん)が、県立富士高校で、ワタシが沼津商業高校だった。
県立富士高校というのは、ワタシの母校である。したがって、ここからちょっとややこしい人生も始まることになる。


 この富士高校という学校が、教員生活に相当な影を落とし、その数倍の光を当ててくれた学校であって、小学校時代にプールで遊び、中学校時代に文化祭に行き、現役高校生活を3年間過ごし、女房(ついに結婚したので)が2度の産休育休を含めて10年間過ごし、その後転勤した私が12年間過ごし、息子の一人が3年間過ごした学校である。
静岡県立富士高等学校 - Wikipedia
ワタシは、富士高校の看板部活である百人一首部の第12代目の部員であった。


 今回は、下田南高校から沼津商業に移る時の話なので、百人一首部(競技かるた)の話を除く。
沼津商業に転勤すると、そこでとんでもない人物と出会うことになる。今日の最後は、この思い出話。


Youtubeに張り付けたのは、あの富士高体操だ。このヴァージョンは、ワタシの親友、倉藤理大先生が編曲をし直して原盤を忠実に再現したものなので、昔、生徒としてテープの伸びきったバージョンで練習した世代には違和感があるかもしれない。ただし、この富士高体操の出だしは、富士高OBOGならば絶対に覚えているだろう。
「創作 斎藤正雄 作曲 望月桑太郎 全員 気を付け・・・・・・・」で始まる 最初の部分である。


 私が転勤した沼津商業に、サイトウマサオという体育の先生がいた。もうすぐ定年を迎えるベテラン先生だが、何となく私に優しくしてくれた。好好爺風の大人物でどの若手教員からも慕われており、宴会の中心人物だった。
転勤当初から、ある疑問を持っていた私は、ある日、そのことを勇気を出して聞いてみた。
 「サイトウマサオ先生って、あのサイトウマサオですか?」


「ああ、そうだよ。富士高体操は俺が作ったんだ。全部」「全部ですか????!!!!!」
「そうだ。若手教員だった俺は、体操作れって先輩に命令されて、全部作った」
「つまりあの、創作サイトウマサオ、作曲望月桑太郎のサイトウマサオですか」
「もちろん、そうだ」


 私が高校1年生から覚えこまされた富士高体操は、てっきり明治か大正時代の制作だと信じ込んでいた。(それくらいダサイ)。だから、斎藤正雄も望月桑太郎も、とうにこの世からいなく、どこかに色あせた肖像画があるだけだと勝手に思い込んでいた。
その斎藤正雄が、現実にその場にいる!!!!!!!
 教員生活でこれほど驚いたことは他にない。
某高校勤務時代某美人女性教員の朝帰りの現場に出くわした時でも、こんなに動揺しなかった。この時見たものは実物だが、サイトウマサオはマボロシだ。


 その後、斎藤正雄先生はご退職されたのだが、10数年後、ワタシが富士高校に転勤してこの情報を新聞部に流すと、堂々と新聞部が取材に出かけて、富士高関係者全員のマボロシを白日の下にさらすことになった。そして、その数年後、富士高富祭体育の部に斎藤正雄先生がサプライズで現れて、富士生が斎藤正雄先生の前で、その富士高体操を披露することになる。斎藤正雄先生は、涙を流されておられた。


今日は、下田南高校時代と沼津商業高校時代に出合った、お二人の傑物に関する話でした。
次回をお楽しみに。
 


















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