ノーマルビュー

Received — 2024年5月15日 tommy先生の「世相を斬る」

還暦老人清水東を振り返る⑨

著者: tommyjhon
2024年5月15日 06:04
全国の毒舌ファンの皆さま おはようございます。Tommyセンセです。

 ということで、好評連載の振り返るの記。
これからは、2017年4月からの教務主任(部長)時代の話。
清水東高校は、サッカーや頭脳を中心に本当に多くの逸材を世に送り出した高校で、ワタシが在籍していた時にも、溢れ出る強烈な才能と個性の持ち主が多くいたが、いずれも未だに原石レベルである。
 本日は、原石中の原石、(もう少しで)ブレーク予定での芸人さんをご紹介。
なんと、自作のプロフィールがWEBページに残されている。
佐野寛の年収は?彼女はいるの?整形?性格は悪い?気になる経歴 | ブログ (ameblo.jp)

佐野寛という奴で、高校時代は生徒会長を務めていた。 主要なSNSはX(旧Twitter)を使っている。
佐野寛(バターヤング)(@doutokushin46)さん / X (twitter.com)

 今の活動拠点は千葉テレビらしいのですが、早く全国区になってくれないかなあ?・・・・高校時代のお笑いセンスは、「まあまあ」と採点していた。


 さてと、これも突然に指名されて、何の準備もないまま動き始めた、教務主任のお仕事。これはもう学校の根幹を定めるレベルの案件が多く、なかなかブログに書けないこともある。とにかく、主任最初のGW(ゴールデンウィーク)の頃までは、県提出の公的文書を終わらせなければならず、とても苦しい毎日だった。そもそも性格的に細かいことに向いていおらず、このIT社会の到来とともに一昔前の教員という職業からは考えられないほどIOTが進化したにも関わらず、ワタシのPCスキルはほとんど素人レベルである。未だにWardやエクセルなどの超基本的ソフトも十分に使いこなせないでいる。かろうじて、人より優れているのが、このような早朝の時間にクダラネー時事ネタを出鱈目なタイピングで打ち続けていることだけだ。つまり、「技術的には大したことないが、執念深い性格」なのである。


 教務主任の仕事に関しては、執念だけが頼りだった。他に才能がない。
そして、当時の校長から厳命を受けて執念だけで達成したのが、学校の教育課程変更である。
当時、清水東高校のカリキュラム(生徒レベルでいうと時間割)は、基本設計の古さに加えて、SSH(スパーサイエンスハイスクール)対応も行われていて、極めて異質なものだった。
①甲週、乙週という2週間で一つのサイクルとなっていた。(A、Bを甲、乙に訂正しました。ケンスケ先生からのご指摘)
②なんと、60分授業である。
 この基本設計では、現在の理科基礎科目3科目必修(生物基礎・化学基礎・物理基礎)には到底対応できない。また、情報も必修化されたり、地歴公民科の新課程(歴史総合・地理総合・公共の必修化)にも対応できない。しかも、「総合的な探究活動」という訳のわからない授業も加えられた、スーパーマルチ履修(超多科目必修)をこなすことが出来ないだろうと、誰もが思っていた。(誰もが思っていたけれど、誰も手を付けることが出来ないでいた)。


 ワタシは、教務主任や進路課長の仕事をしながら、いつも心の中で呟いていた。「こんなん学校の重要業務は、OBがやれよ・・・・お前等、好きな仕事ばかりやって、みんなから嫌われるような泥臭い業務はやらないんだよな」
ただ、校長先生からの厳命なのでワタシの時代にこの難問をクリアしなければならない。
 そして、各教科の授業時間(1単位60分×週単位数×年間授業週間数)を分刻みで解体し50分授業として換算しながら、日本の高校というのは、実際にはどれくらいの授業数が必要なのか?という原点にまで戻って、カリキュラム(時間割)を作り変えた。もちろん、一単位を50分が文科省の標準授業時間である。


 このカリキュラム研究で、理解できた「普通科高校のカリキュラム規準」とは以下のものである。ただし、これは文科省が指定している標準単位(週の時間数)ては、かけ離れている。文科省レベルでの標準単位数は、受験を無視した机上の空論だ。清水東高校などの進学校には進学校のそれなりの規準が存在しているのである。この「それなりの規準」はうっすらと文科省も認めているような感じだ。というのは、共通テスト(当時はセンター試験)の配点割合を、進学校なりの規準として考えると、かなり現実的だったのである。
 以下、このような思考方法をそれなりの規準として用いた。
①センター試験で200点満点の教科(国語・英語・数学)は科目の違いはある(例えば、国語は現代文と古典、数学はI、ⅡB、など)けれど、1年から3年まで毎日1時間必要だ。つまり、3年間で15単位。
②センター試験で100点満点の科目(化学、物理、生物、日本史、世界史、地理)は、200点科目の1/2の点数なのだから、15単位の1/2の時間配分が必要だ。つまり、1年~3年までで7単位もしくは8単位。(例えば、化学基礎2単位ならば、化学では6単位)
③センター試験で50点の科目は200点科目の1/4だから、3,5単位程度(例えば、化学基礎2単位・化学基礎演習2単位もしくは1単位)
④あとは、文科省の規準でよろしい。(家庭科2単位、保健2単位など)
 そして、これらを基本理念として、増やすとことは増やし減らすとことは減らすようにして構築しなおして、1単位50分授業案を各教科に提示した。


 そうしたところ、各教科からは特別な異論も出ずに、この大改革はすんなりと決まった。だいたいは、カリキュラム変更が行われると各教科での時間数分捕り合戦がはじまって収拾がつかなくなるのであるが、このように全体を作り直す場合には、それなりの理論武装をしておくと、日ごろは意地の張り合いをする教科でも案外と納得してくれるものなのだ。
 また、このカリキュラム作成段階では、新教育課程(公共とか歴史総合とか)に対応できるようにしておいた。


 もう、ワタシがカリキュラムを作ってからすでに6年が経っていて、現在の清水東高校の教育課程がどのようになっているかはわからない。自動車の大幅なマイナーチェンジは通常5年おきに行われる。フルモデルチェンジは10年に一度だ(これは経済学)。教育課程も、5年をめどにマイナーチェンジ、10年でフルモデルチェンジが行われるべきだと思う。(文科省は、この周期を守っているフシがある)そして、ワタシの次の教務主任殿は、今でも教務主任であり(たぶん)、このブログの読者様でもあるので、これ以上迂闊なことは言えない。
 ただし、この教育課程を作り変える作業をしていた時の思考方法(一度全部分解して、どの科目がどれくらい必要なのか?から再構築すること)は、書き残して置きたかった。


 他にも(多くの先生方を敵にまわしたのに)公表しても意味がない制度改革をかなりした。どれも、「一度やろうと決めたことは執念だけでやりきる」というモチベーションだけだった。ところが、またしてもワタシのあずかり知らぬ人事上の出来事で、教務主任の職を2年間でおしまいにすることになる。この時の管理職のセリフは、
「お前が教務主任を続けて新しい進路部長を見つけるか、お前が進路部長をやって新しい教務部長を見つけるか、どちらか一方だ」
というものだ。
 結果的にワタシは進路部長となった。つまりは、新しい教務主任をお願いすることになった。S先生(読者様)、引き受けてくれて本当にありがとうございました。普通に考えれば、S先生の方が数段階上の適任者です。<m(__)m>
Received — 2024年5月14日 tommy先生の「世相を斬る」

還暦老人清水東を振り返る⑧

著者: tommyjhon
2024年5月14日 05:34
全国の毒舌ファンの皆さま おはようございます。Tommyセンセです。

ということで、大好評“清水東を振り返るの記”の前に、近況報告。
じゃーーーーーん。これが僕の白内障
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 手術前検査を、1時間くらいやった後のドクターによる診察で見せてもらった写真。
「これっ、写真とってもいいですか?」と聞いたところ、ドクター氏は快く承諾してくれた。この角度から眼球の写真が撮れるわけがなく、おそらく合成画像でしょう。
でも、これほどの違いが左右にあるのか!!!!!!!!! もちろん左側画像がワタシの右目。右側がワタシの左目(ややこしいけれど)
ドクター氏も不思議がって、
「これだけ進行に差があるというのは、若いころ、野球のボールが目に当たったか?右目を強く殴られたか?スキーで右目を強打したとかの経験がありますか?」と質問ししてきた。きっと、こういう片目だけの白内障って、過去にそのような事例が多いのだろう。でも、ワタシは全く記憶がない。確かにボールが当たったことの経験は、長いキャッチボール遍歴の中で一度や二度はあるだろう。でも、当時はそれを大事故だと記憶することすらなかった。


 とにかく、6月6日の手術が終われば、常人のような“両方とも老眼”に戻る。・・・・この老人の悲哀を理解してください。手術を受けても“両方が老眼”までしか回復しないのだ。(ちなみに、人工レンズの代金は患者負担で6万円ナリ)。今は、右目だけ0,03の視力しかなく、しかも景色が白濁している。運転していてやたらに眩しいわけだ。


さて、清水東振り返りきの続き。
進路課長(部長)になった高橋ケンイチ先生と学年主任のタッグチームで、様々なシン企画を繰り出した。高橋先生も“ぬるま湯”状況を実感しておられたと思う。
(昨日、先生自らからLINEがあり、実名掲載がバレれていたことがわかった。ずっと疎遠になっていたので、絶対に「読んでいるはずがない」と思っていたが、なんだ!!!!!読者の一人だったのか)
ぬるま湯体質は、ある先生が、「清水東の進路結果って、どれだけ失敗しても理数科から東大合格が一人でもでると、それで満足しちゃうんだよね。先生方みんなが・・・・・・」とぼそっと、言ったことからもわかる。
 ワタシは、東大京大は半ば天才肌の特別なDNAの持ち主ではないと合格できないが、旧帝大や医学部に関しては、ある程度の才能と、充実学習プログラムの提案と実践で合格が可能である、という信念を富士高時代から持っていた。したがって、「教育力&合格力」という指標は、旧帝大クラスの合格者数によって決まるとも考えている。
また、高橋先生は、名門清水東高校サッカー部(もうこのフレーズだけしか残っていない)の部長を長く勤めておられたし、ワタシは依然として“なんちゃって野球部副部長”だったので、やはり、サッカー部や野球部の現役生から名門国立大学の合格者を出したかった。これぞ本物の文武両道という。ちなみに、サッカー部よりも(近年は)全国インターハイによく出ている男子ハンドボール部は、記録から見ると、本物の文武両道を実践していた。旧帝大のような名門国立大学にこだわったのは、名門私立大学には、指定校という制度があったからである。これは「教育力&合格力」にはカウントできない。(読者の皆さん、今の清水東に名門私立の指定校があるかどうかはわかりません)。


 学年主任として、例の度数分布を毎日のように眺めていた。
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 そして、ワタシの学年は、東大程度の頭脳の持ち主が2名確実に存在することがわかった(片方は一浪したけれど、この2名は東大生となった)。ところが、その2名とそん色ない学力の持ち主が20名ほどが存在し、たった1クラスの理数科だけでなく、普通科にも多くいるのだった。彼ら彼女らに志を強く持たせ、モチベーションを保ちつつ3年生の後半を迎えさせれば、かなりの好成績(難関大学合格者数で)が残せるだろうという確信が出てきた。特に、「京大を目指す生徒」が10名程度おり、彼ら彼女らを京大に送り込むことが第一の目標となった。一名~二名の東大合格よりも、10名の京大合格の方が、絶対に学年全体の雰囲気が良くなるのだ。しかも、文系クラスまで交えて!!!!!! 
 高橋ケンイチ先生は、先生独自の人脈を駆使して、京大訪問まで実現してくれた。(清水東では、理数科独自の東大訪問や普通科を含めての名大オープンキャンパスあ、行事としてすでにあったが、京大訪問はまたも新企画である)。そして、Z会の添削も学校単位で採用した。代ゼミからは、英語読解指導で抜群の評判を得ていたある講師も招聘した。(これらすべて高橋先生発案である)
 西川彰一の講師情報・評価・レビュー|代ゼミ|英語|予備校比較.COM (yobiko-hikaku.net)
ワタシは、西川先生が清水東の救世主だったと信じている。
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(1) Xユーザーの代ゼミサテライン予備校さん: 「【本日の「KOTONOHA」vol.62】 本日は英語科の #西川彰一 講師からメッセージが届きました📣 『Failure teaches success. 間違いから学ぶチャンスを手にするために、一杯問題を解こう。』 ≫西川講師の紹介動画はこちら≫https://t.co/k0BegnW1gq #講師の代ゼミ #代ゼミ #代ゼミサテライン予備校 https://t.co/6WdhSRpIX7」 / X (twitter.com)

画像はここから拝借。


 こうやって、高橋先生が進路課長に就任してからは、進路実績が着実に進路実績が向上し、ワタシの学年では京大合格者現役7名という実績を残すことが出来た。あの時に担任として頑張ってくれた7名の先生方には本当に感謝している。旧帝大以上の合格者数が、それまでが20名程度だったものが、数年で30名程度まで増えた。ここまでいけば、先生方の思考も変わってくる。


 さてと、ワタシの人生二回目の学年主任も平成29年(2017年)の春に終了。さてと、これからどんな身の振り方があるのだろう?と考えていた矢先、またもや、例の弾丸発言がワタシの胸元で炸裂した。
「先生がウンと言わないと、次の人事が進まないよ・・・・」
これは、当時の校長の口から放たれたマグナム弾級の衝撃発言であった。
ワタシに、教務課長をやれという。


・・・・・「あたしゃねぇ進路の経験はたくさんあるけれど、教務畑は未経験だっちゅーの」
Received — 2024年5月13日 tommy先生の「世相を斬る」

還暦老人清水東を振り返る⑦

著者: tommyjhon
2024年5月13日 09:32
全国の毒舌ファンの皆様 おはようございます.Tommyセンセです。

ということで、月曜日の朝。だらだらと振り返り記を続けます。本日は、勤務日ではありません。午後からは、眼科さんへ手術前検診に行く予定。


さて、清水東振り返るの記は、未だに2015年。
 この年、清水東2年目で、学年主任をやることになった。1年の学年主任だから3年間は同じ仕事だ。学年主任は、学年部教員の担任みたいだし、学年の生徒全体の担任みたいだからどの仕事(生徒指導&教務&進路&保健健康など)にも関わることになる。しかしながら、清水東高校では、学年主任にもしっかりと分掌(所轄)の仕事はついていた。ワタシは3年間、学年主任の仕事をやりながら、進路課(清水東では進路指導部が正式名称かも?)の仕事もやることになった。清水東高校の進路指導に緩さや曖昧さを感じていたワタシは、3年間でいろいろ変えていこうと感じ始めていた。
 
 進路指導の緩さを感じていたのはワタシだけではなかった。同じ学年部で一緒にすることになった数学のN先生も同じ思いであり、この学年がスタートする前に、大きなカリキュラムの改革を実現していた。それは、普通科の文系から東大を目指すことができるようにカリキュラムを見直ししたことだ。富士高校でも当たり前の事であったし、県下、他のトップ進学高でも当たり前に手当されていた文系東大志望者は、清水東では無視されていたのだ。旧態依然としていたカリキュラムは、どんどん変化していったセンター試験と個別学力試験の科目変更に対応できていなかった。文系東大志望者は地歴の「日本史」&「世界史」&「地理」の3科目中2科目が必須科目なのだが、以前の清水東ではそれが対応できていなかった。結果的に、ワタシの学年からは文系東大合格者が出なかったし、その後も、現役では文系東大は出現していない。清水東から離れて3年が経つがどうなのだろう?


 進路指導に関しては、ワタシの学年主任1年目スタートと同時に、とある業界では有名な高橋ケンイチ先生が清水東進路課長(部長?)に就任した。おそらく、先生にとっては2度目の進路主任だったと思う。高橋先生は、ワタシを昼間も夜も重用してくれた。先生と学校の話や酒の話であそこまでお付き合いができる人間はなかなかいない。かろうじて、それなりにお付き合いが出来たので、高橋&外山のセットで、いろいろな所に顔だしした。京都の祇園、静岡の呉服町、東京は八重洲。高橋ケンイチ先生は、ワタシとは正反対の性格で豪奢な方だった。


 先生とのお仕事での最高傑作は“三園倶楽部”の立ち上げである。まあ、ワタシは側にいただけなのだけれど、一応設立から消滅までを見届けた。
静岡市清水区 和風ビジネス旅館 三園旅館 | ご宿泊・スポーツ合宿・ご宴会に (misonoryokan.jp)
三園倶楽部とは、ケンイチ先生が音頭をとって集めた(夜だけの)勉強会である。ただし、凄いことに、ベネッセ社、河合塾、駿台、代ゼミという大手受験業者4社の担当を一同を招集し、それに地元の予備校や私塾も加え(Z会も)、その他知人の先生方にも声をかけ、常に20人以上の方々があつまった。
旅館に腰を据えて、一晩じっくり進路指導について語り明かそうという企画であって、その後10年間というもの、この三園倶楽部に集まった方々との繋がりが、他の学校に転勤した際でも大きく役立った。


 高橋先生は、このように受験産業を上手に使うことが上手だった。顔は厳ついが、稀代の営業マンでもある。いやらしくもなんともなく、生徒の進路指導に関して言えば、「変な縄張り意識は止めて、すべてのリソース(資源)を教えている生徒の為に使おう!!!!!!」という信念が先生の行動の源泉だったと思う。その当時、ワタシは清水東には批判的な態度をとっていたこともあった。清水東よりは富士高校の方が遥かに先生方の進路IQは高かった思っていたが、考えてみれば、それも「変な縄張り意識」と似たようなものである。高橋先生との仕事の中で、これからは「偏狭な考えは全部捨てて、すべてを担当する生徒の為に尽くす」ことにしようと心に誓った。


 清水東は、名門校である矜持が邪魔をしていたのか、受験の時流に合わせて変革させていくという意識が薄かった。ワタシは「偏狭で狂信的ともいえる清水東愛」という時もあった。高橋先生は、どんどん新しい仕掛けを導入していった。代ゼミの出張講義、代ゼミの新宿合宿、Z会の添削や東大京大セミナー(パルシェでやったんだよ)、センター試験後略ワンディセミナー・・・・などなど。おそらく、これらの企画を実現することには、大きな抵抗があったかも知れない。でも、学年主任はワタシなので、どんどん生徒の心に火をつけていった。高橋先生が、才能の束にガソリンをまき、ワタシが火をつけたのが、一連の放火魔の正体だった。


 この清水東高校の再興に大きな役割を果たした高橋ケンイチ先生は、もっともっと名門病に悩んでいた某私立高校にヘッドハンティングされて大阪の方に旅立った。すごいなあ、心からそう思う。ワタシみたいな小心者には絶対に出来ない。高橋先生の西部戦線は2019年の春から始まるのである。


 次回も、学年主任時代の話の続きです。お楽しみに。














 


Received — 2024年5月9日 tommy先生の「世相を斬る」

還暦老人清水東を振り返る⑥

著者: tommyjhon
2024年5月9日 05:49
全国の毒舌ファンの皆様 おはようございます。Tommyセンセです。

 ということで、痛風の痛みも沈静化し、何となく普通の歩行ができるようには回復した。整形外科に行って、叱られながら薬をお願いするのは嫌なのでロキソニンは大切に大切に使わなければならない。痛風の原因が“ぜいたく病”であって、高カロリー&高タンパクの食品であることは判っている。飲み過ぎも良くないことは知っている。知っているけどやめらないから痛風になるのも理解はしている。でも、そうやって同じモノを食べ同じ酒を飲み続ける奴の中でも、痛風になるのは希な例だ。全員が全員発症するわけではない。
 しかしながら、お医者さん達はワタシのことをまるで犯罪者のように扱う。「お酒の飲み過ぎが悪い」「あなたの食べる物が悪い」俺は、犯罪者ではなく被害者なのだ。もっと、優しく接してくれてもいいだろうに・・・・つまりは、(全部そうなのだけれど)痛風などで医者の世話になりたくない。やはり、ロキソニンは大切に使おう。


 好評振り返り記は、2014年からの学年主任時代。
学年主任として勤務していると、クラス×7なので、クラスの大きな出来事は7倍の数にのぼる。退学者の数も7倍となり、自分に対するダメージも7倍になる。生徒が不登校になって結果的に退学していく場合、直接のきっかけがほとんどないことが多い。推理ドラマなどを見ていると、必ず事件には原因があり契機があるのが普通なのだが、不登校って原因も契機もほとんどわからないことが多い。
 大きく理解できるのは、「学校に行くこと」という作業は、その子にとっては相当なエネルギーのいる行動なのだが、体内にそのエネルギーがなくなってしまった、と考えるようにしている。少しずつだがエネルギーが充填するのを待つしかないし、他の学校に行けば、また、別の種類のエネルギーを使うことができるかもしれない。経験上、引きこもりの生徒が復活する場合、誰の支援も受けないで自分から動き出すこと、自分から行動することが多かった。例え親であっても引きこもりを治すことは出来ないと思う。(あくまでも私見)。退学者がでると学年主任は相当に凹む。
 
 モンスターペアレントの対処でも、相当な体力と気力を使った。
ある日ある時、あるクラスの親から電話があった。17時過ぎだと思う。ワタシはなんとなくアドレナリンがでていたので、ここが仕事場とばかりその電話を担任から受け継いだ。そして、受話器を置いたのは19時を過ぎていた。内容は、今でも思い出せない。きっかけがなんなのかを思い出すことは出来ないが、受話器を持っていた左手は、右手で一本ずつ受話器から外してあげなければならなかった。その電話中の2時間で硬直していた。内容は思いだせないのだが、なぜ長くなったのかは振り返ることが出来る。決着がつかないからだ。ワタシ達学校側に落ち度はない、親側からする子どもに落ち度はない。普通なら第三の方法で解決すればいいだけだ。しかし、相手は、第三の道を拒んでいる。こんな感じでずっと膠着状態が続き、受話器を持つ左手は完全に硬直してしまった。
 この親との関係は、このような感じで卒業まで続いた。3年間、親の心はほぐれることはなかった。


 少子化の現在、一人一人の大切さは、30年前、50年前よりも比べるべくもなく大きい。命を計量してはいけないが、4人も5人も子どもがいるのと、やっと授かった一人っこでは、親が過保護になるのは当たり前だ。でも、過保護になる分、耐性が失われているような感じがしている。子ども達に生き抜く力が無くなっている(あくまでも私見)。社会的耐性って言葉があるかどうかわからないが、多少のことは自分で解決できるようになって欲しいなあ。
 先生として、何か生徒が訴えてきた場合、「ざまあみろ」とは言ってはいけないものなのか?


 特に、リアクションの小さい(少ない)子ども達は、将来がとても心配である。
教師としての経験上、表情の少ない子どもは、内面に大きな問題を抱えている場合が多い。これは正しいと思う。


 昔、教師同士の間で、「先生、廊下に画鋲が落ちていました」と申し出られて困った、という話で大笑いしたことがある。
廊下に落ちている画鋲なんてそこいらの窓枠に差しておけば問題ないのに、なぜいちいち先生にもってくるんだ。
こういうのを、生きる力だというのだろうが、こんなん学校で身につけることではないよなあ・・・・・・・・・


 ということで、今日は学年主任として辛かった話。
そして、今日の授業は、「世の中には、物質と精神しか存在しない」という高尚なテーマをやります。・・・・どちらもセンセの仕事なんだけど、ただ今、再任用ハーフだから授業ダケ。気楽なもんだ。 






  
Received — 2024年5月8日 tommy先生の「世相を斬る」

還暦老人清水東を振り返る⑤

著者: tommyjhon
2024年5月8日 07:02
全国の毒舌ファンの皆様 おはようございます。Tommyセンセです。

ということで、還暦老人、清水東高校時代を振り返る記の⑤ ただし、5回目でも1年目のこと。


 2014年の正月、ワタシは3年生副担任としてセンター試験を迎えた。清水東高校はセンター試験会場が静岡大学に振り分けられていた。清水東高校は、静岡県下でもかなり特異な学校で、サッカー部や理数科の関係で、かなり多くの生徒が清水以外から通学している。静岡県東部地区からもやってくるし、(あの内田篤人氏は伊豆半島の付け根、函南町の出身だ。)静岡県の西部地区からもやってくる(その当時、清水東陸上部は棒高跳びに力をいれれいて、その関係で入学してくる生徒もいた。K代先生、元気ですか?) このような実情を知らずに、大学入試センターは、センター試験の会場をあてはめるのである。(我が母大でもある)静岡大学は、静岡駅から遠く、遠距離通学者にとっては極めて不利な場所だ。 
 案の定、センター試験の当日、東海道線が遅延するという事態が起きた!!!!!! 何故か知らないが、東海道線はセンター試験の時に限ってトラブルが起きる(起きていた気がする)。やはり、東高の生徒が一人、試験会場に遅れそうになった。彼は、東海道線を諦め、新幹線に乗り移り、最後はタクシーでぶっ飛ばして静岡大学に合流した。この事件以来、センター試験(今、共通テスト)は、前日ホテル泊も考えろと指示している。
 センター試験(現、共通テスト)は、とっても受験生に優しい(受験生ファースト、受験生第一主義)入試システムである。日本の国公立大学は、センター試験(現共通テスト)と個別試験(未だに2次試験ともいう)の合算であって、しかも、中間値(センター試験の自己採点結果)を計算した後に出願できるのだ。したがって、意地を張らなければかなりの確率で、国公立大学に入学できる。この中間値自己採点&出願指導のシステムは、文科省と受験ビジネスコングロマリット(B社・K塾・S台予備学校など)の上手な談合の上に成り立っている。
 逆の見方をすれば、この受験システムを上手に理解できている先生ほど、やはり進路指導は上手だ。センター試験(現共通テスト)などに精通している先生は、私大受験にも詳しい。例えば、センター試験で30点差のついたC判定値という結果がある。2次試験(個別試験)が100点満点の大学を勧めることは絶対にありえないが、個別試験の合計点数が500点ならば、彼の得意科目にの具合によっては逆転出来る。受験は、“気合い”ではないのだ。


 これらを徹底的に富士高の(合理主義を第一とする)進路指導で鍛えられたワタシにとっては、初めて迎えた清水東高校の入試検討会(センター試験の次の土曜日くらいにどこでも必ずやる)はあまりにもロマンチックで柔らかな感じがした。そして、思わず、頭の奥底にしまってあった受験脳のスィッチが入ってしまった。
この清水東高校の1年間を、“昼行灯”として過ごそうとして、事実、その通りに生活していた。前年までの学年主任&百人一首部顧問&事務局長&野球部父母会のバカ忙しい時代はなくなったのだ。
 そうした昼行灯は、丑三つ時に、必殺仕事人中村主水のようになってしまった。この入試検討会では、遠慮なくバンバン意見を言いまくった。
 ハイ、そこまで。



 3月、ワタシは1年の学年主任になれという内示をもらう。案の定、「君がウンといわないと次の人事が動かないよ」という決まり文句もついて来た。
ああ、これは、1年休んだ後に重要な仕事に見舞われるという「Tommyセンセの職歴法則」に則る力が働いたのだな。
①全国事務局長をやるから、担任休ませてくれと申し出た1年後、理数科の担任となる。
②理数科の担任を3年間やったから、1年間は休ませてと申し出た1年後、学年主任となる。
③転勤1年目で、副担任の昼行灯として働いたら、またも学年主任となる。
(この法則は、伊豆中央高校でもはたらいた。)



ということで、清水東高校2年目は1年生学年主任としてスタートすることとなった。そして、その後、いろいろな意味で一緒にお仕事をさせていただいた高橋ケンイチ先生が進路課長を引き継いだ。2人での●道中の始まりでもあった。




 




Received — 2024年5月6日 tommy先生の「世相を斬る」

還暦老人清水東を振り返る④

著者: tommyjhon
2024年5月6日 06:40
全国の毒舌ファンの皆様 おはようございます。Tommyセンセです。

 ということで、GWの後半、楽しい楽しいお出掛けとはいかず、なんと5/3に痛風を発症。3日は息子&孫家族と一緒に魔界の牧場(まかいの牧場)に付き添って行けたものの4日の日本平動物園は見送り、5日も一日中家の中。3年前に偽痛風発症の時にいただいた鎮痛剤(ロキソニン)のお陰で今は日常の生活できるまでに回復した。またもや四つん這いでトイレに向かうという情けない格好をしてしまった(泣)。


 さて、痛風の激痛も治まったので、還暦老人の“教員人生を振り返るの記”を続けることにする。


 2013年(平成25年)の春、ワタシは富士高校から清水東高校に転勤した。(静岡県下では)言わずと知れた名門進学高の両校であるが、いざ転勤してみると学校体制でみると大きな違いがあった。富士高校は文字通り富士山のような山容だと喩えればいいだろう。どっしりとして広大な裾野を持ち、高くそびえるにはこのような形になるのかなと簡単に想像できるような形をしている。生徒の学力分布もその通りで、頂点の数人から裾野が広がるように秀才達が存在している。ところが、清水東は、八ヶ岳や北アルプスのように、大きな山帯のもっと上に、一人一人の個性が天を突くような急峻さでそそり立っている。
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(富士山=広く大きい裾野の上に頂点が存在する=富士高)
 
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(日本海側からの剱岳などなど=個性的な面々がそれぞれ天を窺う様相=清水東)


どちらも英才&秀才(あくまでも静岡県内)が集まるのだが、富士高は集団として強さと大きさがより備わっていて、清水東は個性的な強さの集合体のような印象だった。
 過去の業績を見てもまさしくその通りで、清水東の理数科は静岡県の高校理数科としては一番の伝統を誇っている。なんと、調べた時点(今から6年くらい前)では、理数科の過去通算の最多進学大学は東大だそうだ。(卒業生の進学先で最多なのは東大ってこと、信じられる?????)
また、サッカー界でも同じ事がある。
内田篤人君おめでとう、史上初 清水東高校の快挙 : tommy先生の「世相を斬る」 (exblog.jp)

これは、清水東高校が、ギネスに申請したら認められるであろう世界記録である。世界的には高校単体でサッカークラブのある国など見当たらないので、この5大会連続OB選出は、絶対的な世界レコードだ。中山雅史と長谷部誠を輩出した藤枝東高校は、2006年のワールドカップドイツ大会を逃している。(ワールドカップロシア大会は、小野伸二&川口能活の清水商業コンビが選出された)
 このような突き抜けた才能をボコボコとでてくる下地みたいなものが清水東高校にはあるのだろう。実際に赴任してみても、そのタレントの集まりに驚いた。


 日本の高校では、文化祭や体育祭に名称をつける。富士高校は富嶽祭(ふがくさい、腐が臭い)であるし、静高は卬高祭(うこうさい、高きを仰ぐ、)である。清水東は、単に“学校祭”であって、その他に言い方はない。これは、県下では他に浜松北高くらいしかないずうずうしさ(おおらかさ)である。他の学校を意識する感覚がないんだ。
この学校祭での出来事はワタシは仰天した。おそらく、清水東高校の関係者ならば全く普通の感覚なのであろう。なんと、この学校祭のテーマ曲(清水東では、賛歌と呼ぶ)が、生徒の有志バンドによる完全オリジナルの楽曲なのだ。しかも、応募数が多い場合には、オーディションをもって「テーマ曲」を決定するという。作詞も作曲もアレンジも完全なオリジナルで、もちろん、そのバンドが学校祭のオープニングを飾るというのは、全国探しても、そうあるものではない。
Youtube動画にも残っているよ。
【公式】2015年度 静岡県立清水東高等学校 学校祭 賛歌 「Story」 - YouTube

・・・このバンドのメインボーカルは東大に現役合格している。


 ただし、学習や進路の方も、どことなくこの個性を大事にはするが、学校の組織として進学させようという体制は完成していない感じがした。(富士高校の進学体制は県下有数の組織力の賜物である)、顕著な例をあげる。


 ワタシが清水東に転勤した2013年は、センター試験の必須科目がやや変化した年であった。2013年のセンター試験においては、公民科目での「倫理・政治経済」が導入され、今までの「現代社会」・「政治経済」・「倫理」に加え、倫理50点分、政治経済50点分のミックス科目である「倫・政」が新設された。しかも、この「倫・政」が東大から旧帝大、千葉大、神戸大、横国大などの難関大の文系では、必須科目となったのである。つまりは、このような文系難関大に行くには、「倫・政」をセンター試験において受験しなければならず、その為には、授業でも倫理と政経を勉強しなければならない。
 前任地、富士高校はこの変更に備えて、文系生徒は「倫理・政経」を4単位で両方学習するようにカリキュラムを変更していた。ワタシが学年主任の時代、東大から旧帝大までの難関大に64名の富士高最多合格者をだしたのだが、この数字には、文系の旧帝大(特に名古屋、東北)で荒稼ぎしたことが大きい要素となっている。ワタシは、「倫理・政治経済」が必修化されることが判って以来、着々と「倫理」の教材研究を進めていて、それほどの負担にならずに、「倫理・政経」の必修科目を教えてこれた。(今では、倫理が一番教えやすい、伊豆中央でも、それなりの倫理政経対応は整っていた)


 ところが、清水東高校では、全くの無関心・無対策のままであった。カリキュラムには、「倫理」という科目が存在しない。生徒達には、「個人的に予備校で勉強しろ」というメッセージがあっただけだった。しかも、ワタシの前任者(つまり、公民の担当)は進路課長の職にもついていた方である。この変更を知らないはずがない。
一担当に託せられる仕事ではないことも確かだ。もっと恐ろしいことに、この「倫理」が開設されていないという大問題を、先生方がそれほど大きく考えていないことにも驚いた。清水東高校は伝統ある理数科の開設校でもあり、やSSH(スーパーサイエンスハイスクール)の認定校でもあるので、理系の教育には伝統的な強さがあるが、文系の進学などあまり興味がないようにも思えた。(東大の文科や一橋に行った卒業生もいるが、彼らは文転生である)


 なので、公民科として転勤したワタシは、当然たった一人の公民科教師でもあったので、「倫理・政経」問題の解決に対処した。科目「政治経済」は3年生で文系必修科目であったので、「倫理」を課外(正規の授業以外)のゲリラ的な授業として、朝7:10~8:10まで、毎週火曜日に行うことにした。これを続けながら、土曜日の「土曜講座」でも倫理を講義し、夏休みの補習でも「倫理」を講義した。そうして、やっとこさ、旧帝大以上の難関大志望者のセンター試験受験の下地作りが出来上がった。
もちろん、難関大の合否は個別試験で決まるので英数国の方が重要である。それ故、「倫理」などの科目で貴重な学習時間を割いて欲しくない。ワタシの「倫理」「政治経済」の授業・補講の目的は、「それほどの時間を費やすことなしで、高得点をとるか」であって、「哲学」などの深い理解を目指すモノではなかった。


 結果的に、この年の受験において文系難関大で目立った成果は上げられなかったのではあるが、体制作りだけは(ワタシの勤務時間を度外視した仕事ではあったものの)、整った。


 同じような問題は、良くも悪くも清水東高校の学校体制に垣間見られた。よく言えば「個性を大切にする」悪くいえば、「生徒任せ」の進学指導体制は、個性的な人材が少なくなっている現状では、ややおおきなリフォームが必要であることは明白だった。例えばの、60分授業である。一昔前、多くの進学高は65分授業を採用していた。一般的には50分授業であるが、数学や理科などの実験や長い考察が必要な科目では65分という長尺授業の方が都合が良い場合がある。しかし、もはやセンター試験(2014年当時)に見られるように、今やマルチ科目必修の時代になり、65分ではまともなカリキュラムがくめなくなっていった。
 それを、清水東高校では、65分⇒60分というマイナーチェンジで乗り切ろうとしていたのだが、誰かがここで大鉈をいれる必要があった。(これを4年後に担当するとは思ってもみなかったけれど・・・・・)


 そうして、1年目は終わろうとしていた。次回は、3学期のワンシーンから始めます。 


 
  




 




 














 






Received — 2024年5月1日 tommy先生の「世相を斬る」

還暦老人清水東編3を延期して近況報告

著者: tommyjhon
2024年5月1日 05:20
全国の毒舌ファンの皆様 おはようございます。

 ということで、好評連載中の「教員振り返り記」の前に、ちょっとした近況報告。


現在、ワタシの体躯上の弱点は
①腰椎すべり症で、下半身がいつもしびれている。
「腰椎変性すべり症」|日本整形外科学会 症状・病気をしらべる (joa.or.jp)

これに関しては、
フィットットという無料の体験会場にせっせと通っています。目に見えるような改善はないものの、少しずつ楽になったような・・・・・
この高電位治療ですが、ワタシのような病気よりは、糖尿病のような病気により効果があるようです。(特に不眠症に効く!!!!!)
体験会場(フィットット/いやしステーション)|コスモヘルス (cosmohealth.co.jp)



②高血圧、 定期検診がないので、とりあへず2ヶ月は放置。
そして、今一番困っているのが、


③右目だけの視力低下。
ただ今、左目が1,2くらいで老眼。右目だけが0.1以下のド近眼。なんでこうなってしまったのでしょう。
昨日、休みを利用して富士市内で評判の眼科医さんを受診してまいりました。
9時半に予約をいれて、いろいろな検査を経て、病気が判明したのは10時30分頃。病名は“白内障”。
今では日帰り手術で完治するような病気なんですね。ともかく、そのように診断されて、手術日程まで決めてきました。こういう時に、再任用ハーフ教員は助かります。日程を組むのが楽ですな。学校にそれほど迷惑をかけなくて済む。例え日帰り手術とはいっても、デリケートな箇所ゆえに眼内感染を起こすといけないので、術後3日間は安静だそうです。(特に、運転はダメ)
結果的に、清水西高校の文化祭に合わせることにしました。文化祭ウィークの後半は授業がない(と思う)。


 そういえば、伊豆中央高校に片道90分かけて通っていたとき、最大の敵は朝日だった。西から東へ一直線に自動車を運転するのだから、朝日を真っ正面から浴びることになり、特濃の偏光サングラスをかけてもまぶしさに耐えられない時が何回もあった。他の車は平常運転しているのだが、どうやって直射日光を避けているのだろうと不思議に思っていたのだが、ワタシの右目が白内障ならば、当たり前だ。白内障は光に弱い、ワタシは人よりも断然に眩しさを感じていたのだろう。
 同じように、夕方の雨も不安だった。対向車のヘッドライトで、前がほとんど見えない時があったのだが、これもおそらく白内障の症状なのだろう。
 
 白内障の治療方法は、患部に人工のレンズを入れるのだという。人工レンズは、単焦点だと保険治療で賄われ、複数の焦点を持つレンズだと、保健がきかないそうだ。単焦点というのは、老眼か近眼のどちらか一つを選ぶレンズであって、ワタシは、逆の左目が老眼なのでその老眼に合わせることにした。結果的に、手術を経て普通の老人の老眼になるということになる。ちなみに、このレンズは保険適用で6万円。老眼と近眼に対応する高額治療では50万円以上かかるらしい。
 つまり、「ケチって老眼にする」ことになる。


 眼科の受診を逃げてきたわけではない。2年前にも、某眼科医を受診している。その時は、結膜炎だとは診断してもらったが、白内障などとは一言も言われなかった。しかも、「めっかち」という差別用語(?)で済まされた。毎日の生活では左目しか使っていないから日常生活に支障はないとの診断だった。
今回は、富士市で一番評判のいい眼科をネット予約して受診した。(国一バイパスと東名の取り付け道路の交差点から近い、マクドナルドの隣にその眼科医はある。)
そこでの診断は、秒で終わった。「ハイ、これは白内障です。手術すれば視力もある程度回復します、手術日程を決めましょう」とだけいわれた。眼科医でも差があるもんだなあ。


 ということで、本日はこれで終わり、『還暦老人の清水東編③』は次回にします。










Received — 2024年4月30日 tommy先生の「世相を斬る」

還暦老人清水東編2

著者: tommyjhon
2024年4月30日 06:42
全国の毒舌ファンの皆様 おはようございます。Tommyセンセです。

ということで、やっと転勤した(日記上)。2013年春のことである。
その時に、一番先に連絡をくれたのは、八木監督である。八木監督はワタシのことを“腐れ縁”と表現する。


 最初の腐れ縁は富士高校で一緒に担任をもったことだ。そして、3年生まで持ち上がった。3年生の時はワタシが1組で八木監督が2組。朝のSHRで、八木監督は「詳しいことは1組に聞け」と指示していた。でも、2組の連中は1組の教室掃除をよく手伝ってくれていた。3年の時の球技大会は、男子がラグビーのクラスマッチである。抽選の結果、我が1組は初戦で八木監督率いる2組とあたることになった。この二つのクラスは朝練からずっと一緒に練習してきた仲間達で、決勝であたることを誓い合っていたのだった。球技大会直前のある日、朝、グラウンドで出てみるとこんな雨にも関わらず練習しているグループがある。もしやと思い駆けつけてみると、スクラムの隣で笛を吹いていたのは八木監督だった。
1組の生徒は、八木監督を尊敬していたのだが、大切な初戦でそのような緩い気持ちがでると勝負にならない。ワタシは、対戦が決まった途端に、八木監督を、生徒の前でも“八木!!!!!”と呼び捨てにした。(このあたりで二人の器量の深さが測定される)


 次の年から、ワタシは「センター試験に出る、カタカナ語&略語辞典」を冬休み前に生徒に配ることにした。自分として初めての「センター試験・公民」を担当してみて、「あっ、これはカタカナ語&略語の知識がモノをいうな」と思い、勇気を出して、10ページくらいのプリントを試作した。そして、その翌年、「センター試験・現代社会」において、ワタシのカタカナ語辞典から、20点ぐらいが出題された(ホントだよ)。特に、「エコマネー」(地域通貨の一種)という教科書には載っていない単語がでたことで、『カタカナ語辞典』の信頼度と口コミが一挙に高まり、「トミーぱみゅぱみゅ」とか「トミッキペディア」とか、「トミノミクス」とか名前に毎年腐心しながらの出版と配布を続けていた。これは、清水東高校の最晩年にWeb化され、永遠に残っている。
ア : トミッキルーペ (livedoor.blog)

(ア)から始まり、(ヲ)で終わるカタカナ語シリーズと(A)~(Z)で始まる略語シリーズがある。
A : トミッキルーペ (livedoor.blog)

お暇な皆さん。是非、連続で読んで下さい。頭が良くなりますよ。
 このシリーズは、かれこれ15年ほど続いたのだけれど、これだけで偉大な先生(これは八木センセではなくてワタシのこと)だということがわかる。
この『カタカナ語辞典』をワタシは出来上がる度に、八木先生に贈っていた。


八木先生は、富士高で生徒課長をしばらくやられた後、母校清水東高校に帰任していた。先生にとっては待望の母校復帰であり、清水東高校野球部としての最高の名監督を迎えたことになる。実は、清水東高校は、ゴールデングラブ賞8回の名手、山下大輔さんの母校であり、選抜甲子園大会と夏の甲子園にそれぞれ2度出場している野球の名門高校である。今や、阪神の最強クローザーとなった岩崎優選手の出身校でもあるのだ。
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(山下大輔さんが、たくさんあるゴールデングラブ賞の一つを母校に寄贈してくた時のニュース)


 そうやって、清水東高校に去ったあとも、冬が来ると電話くれて、「今年も楽しみにしているよ」と催促してくれた。八木先生には、結局、最後の号までお渡しすることになった。先生が、毎回毎回読んでくれたのかどうかは疑問である。性格と老眼ゆえ、きっと『カタカナ語辞典』本体は読んでいない。でも、ワタシには「親父が好きでね・・・・」とか「女房が読むから・・・」とか毎回言ってくれた。
八木監督がいたかこそ続いたともいえる。監督は、そういう人だ。


 八木監督は、その電話口でこう言った。(清水東に転勤する前にかかってきた一本の電話から話が進んでいない)
「おお、外山。よく来てくれたなあ。俺はオマエの母校で11年間尽くしてきたのだから、今度は、オマエが俺の母校で11年間働いてくれよ」と言ってくれた。
なぜ、八木監督は、ワタシの残りの任期が11年であることを知っていたのだろう? そうワタシは49歳になっていた。
そして、加えて、
「頼むよ、清水東を救ってくれ」ともおっしゃった。(この「救ってくれ」の訴えには直ぐに気づくことになる。)


 清水東に転勤するこは(自分にとって)目出度いことである。清水といっても我が家からは非常に近く、その気になれば20分で学校に行かれる。この転勤で一番困ったのは、部活動である。
 ワタシは根っからの文化系人間で、スポーツの指導をしたことがない。スポーツに関してブログでもいろいろ蘊蓄を書いてはいるが、実際にやったことはそれほどない。体育館球技にいたってはルールも知らない。百人一首の世界に入る前は柔道をやっていて黒帯もある。しかし、こんあ危険な武道にいまさら携わる気もない。もちろん、ミュージック系の部活もダメだ。ワタシには音感もリズム感もない。ましてや百人一首部の顧問を20年もやっていたので、普通の運動部や文化部の流儀もわからない。
 清水東で、何の顧問になるのだろう?と本当に心配していた。


 ここで、暗躍してくれたのが、たぶん監督であろう(あくまでも想像の域をでない)。
なんと、ワタシは野球部の顧問になっていた。副々々顧問で、なんと野球部は4人の顧問を抱えることになったのだ。しかも、誰も兼任していない。もちろん、他の2人には野球の指導歴がある。しかもしかも残りの2人はワタシより年下で、バリバリの働き盛りである。はっきりいって学校としては贅沢だ。しかも、転勤の年、ワタシは某S岡高校野球部のことに忙しく、土日は清水東高校どころの騒ぎではない(ごめんなさい)。おそらく、中途半端な転勤ホヤホヤのワタシをごり押しして、野球部顧問に入れたのが監督さんなのだろう。
 八木監督が、ワタシを顧問にしたかったのかどうかは判らない。そして、基本的にワタシは八木監督の指導には批判的でもあった(練習よりも座っている時間が長いとなね)。右も左も判らないワタシに居場所を与えてくれたのだろう。そして、その強引な顧問配置を認めさせたことも凄いと思う。
ワタシは、監督に救われた。


 結果、清水東1年目は、3年部副担任、野球部副々々顧問のお気楽生活となった。
次の波乱をお楽しみに・・・・・












 
Received — 2024年4月29日 tommy先生の「世相を斬る」

還暦老人清水東高校時代を語る

著者: tommyjhon
2024年4月29日 09:20
全国の毒舌ファンの皆様おはようございます。Tommyセンセです。

 ということで、息子の事情(その年の夏は熱くなるぞ!!!!!!)と、全国事務局を9年もやって辟易していたことと、ちょうど3年の学年主任の任務が終わったこと、などのタイミングが合って、堂々と転勤希望を書き、堂々と表明した。管理職との面談では転勤に関しての好感触を得ていた。管理職には上の事情をすべて伝えた。この時の校長は裏切るような人ではないし、自分は優先順位No1の功労者であると自負していた。管理職からは、「どうだい、地方の高校で3年くらい勤務してみる気はあるかい?」という不思議なお誘いをうけたこともあった。これは、望んで地方の学校に行った人間は、若手が多いその学校の中間管理職に就きながら3年間を過ごし、その任務が終わった暁には管理職(教頭)に昇格させるよ。という、いかにも公務員ぽい人事なんだろう。ワタシは、第一の理由である息子の事情によって、即座に断った。地方から草薙球場に毎回足を運ぶなんて面倒くさい。


 第2の理由は、自力で解決ししなければならない。要するに全国事務局長の後任探しだ。全国にも声かけて見たけれど誰も引き受け手がいない。(それはそうだろう。面倒くさいのだから)、そんな中、ワタシの富士高校百人一首部時代1代上、浜松北高校の加藤先生が引き受けてくれた。加藤先生も凄い先生で、浜松北高校にかるた部を創設し数年で全国選手権で優勝させてしまった。しかも、静岡県内で行われた、全国国民文化祭やねんりんぴっくなどのイベントも仕切り、県内事務局長もさらさらとやっていた。国語の先生でITにも通暁していて、公認読手の資格も得ているスーパーティーチャーである。ワタシは、加藤先生の一年後輩だから、困ったときはいつも甘えていた。
 その加藤先生が事務局長の仕事を引き受けてくれたので、一番重い肩の荷がおりた。しかし、その加藤先生も実は転勤で、かるた部のない磐田南高校に移るという。加藤先生は、そんなことを一言も口にせずに、ワタシのお願いを引き受けてくれたわけだ。百人一首競技かるた業界で、加藤先生は一番の恩人である。今でも加藤先生には甘えてしまう。(他の先生は、何かと理由をつけて引き受けてくれなかった)


 もう一つ、競技かるた業界には悩みがあった。富士高校百人一首部の後継顧問問題である。ワタシが育ったこの部活、栗栖先生が創部してから12年間は栗栖先生が指導して下さった。栗栖先生が去られた後も、富士高校は日本一の称号を10年間維持していた。しかし、その後は群雄割拠の時代となり、百人一首競技かるたの裾野も広がり、指導者がいないとなかなか強豪校のレベルは維持できなくなっていった。栗栖先生にとっても高校の指導者を育てるのは悲願だったと思う。そんな中で、富士高校百人一首部からは、嶋先生・加藤先生・飯田先生(長泉高校や沼津東高校を指導)、そしてワタシなどが高校の教員として戻ってきた。
 自分が富士高校百人一首部の顧問となってからも、全国優勝もしたいが、部活の顧問を作るのも大きな目標の一つであった。この当時、富士高のOGの一人が、筑波大学を経て静岡県西部地区で国語の教員をしていた。現顧問の稲葉絵美先生である。彼女が、スタンバイをしてる状況であったので、ワタシの転勤と同時か、一年遅れくらいのタイミングで富士高校に戻ってくれるだろうという状況にはなっていた。


 本日の最後の話題。この百人一首業界が全国で急激に人気をつかむようになったのは、漫画『ちはやぶる』が連載されたからである。我々のような昔からの業界人間でさえ、『ちはやぶる』人気にあやかった。
その漫画『ちはやぶる』には、ライバル高校が存在し、それは静岡県の藤崎高校だという。どう考えても、富士高校のことだ。
事実、アニメ化された時に、富士高がモデルであったことがアニメ内で証明されてしまう。
【聖地巡礼】ちはやふる-富士編- : 週末ひとり旅 (livedoor.jp)

↑このブログで検証してみる。
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藤崎高校の最寄り駅の絵、どう考えても、身延線竪堀駅じゃろ!!!!! 電車通学する富士高生が一日2回必ず見る風景である。
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富士高の正門とそっくり。まるで写真。
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正面から見る学校の全景も、まるで写真。


ところがだ、この本格的競技かるた漫画『ちはやぶる』連載当時、富士高校の顧問は、ワタクシ外山先生である。ここまで、富士高校に似せる(寄せる)のならば、当時の顧問はこのような先生でなければならない。
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藤崎高校のかるた部顧問が、こういうキャラクターだったら、漫画『ちはやぶる』は、日本だけでなく世界的な大ヒットになったはずなのだ。しかし、『ちはやぶる』の漫画では、
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こうなっていた。桜沢翠(みどり)先生だという。


ワタシは、百人一首の業界からやんわりと否定されていた。
業界から、「『ちはやぶる』にかるた業界の発展を託す以上、富士高校の顧問は若くて美人でなければ困るのだ」と言われていたのだろう。



そうか、これが引き際なのだ。


なみに、ワタシが転勤して一年後、待望の稲葉絵美先生が転勤されて富士高校顧問となった。ちなみに、彼女はこの様な先生である。
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(画像は、フェイスブックのプロフィールから拝借、本人公認の似顔絵だ)
さらば、富士高。


そして、転勤の内示があったその夜、元富士高校野球部監督で、今は母校清水東の監督をしていた、あの八木道政(あえて敬称略の呼び捨て)から、一本の電話がかかってる。転勤に関して、外部から一番早く電話をくれたのは、やはり八木先生だった。ワタシを野球部顧問として拾ってくれたのである。


 さて、いよいよ清水東高校編に移ります。








 


Received — 2024年4月28日 tommy先生の「世相を斬る」

還暦老人テレビドラマのプロデューサーになる。

著者: tommyjhon
2024年4月28日 06:16
全国の毒舌ファンの皆様 おはようございます。Tommyセンセです。

ということで、今回はワタシが富士高校で理数科担任をしていた、2007年~2008年にかけて、高校教員(しかも県立高校の)としてはありえない体験をした話。


とりあへず、台本。
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本物です。この前、終活の一環として書籍類を一括処分しましたが、その時に見つけた、今や宝物。
かるた小町 - Wikipedia

このドラマ、たかだか1話完結のドラマで、当時は「パンテーンドラマスペシャル」と称して、脚本家の発掘を主な目的としていたらしい。パンテーン(P&G社のシャンプーブランドだって)がメインスポンサーなので、髪の美しい若手女優さんが主役に選ばれていて、綾瀬はるかや新垣結衣も主役を務めたことがあるらしい。このドラマの主役は、夏帆さんと南沢奈央さん。
夏帆 | スターダストプロモーション (stardust.co.jp)  



PROFILE | Nao's Room - 南沢奈央OFFICIAL WEBSITE (naosway.net)



 ドラマのあらすじは、源平の戦い(富士川の合戦)から、800年の時を経て、富士のお宮(米の宮神社で実際にロケが行われた)で繰り広げられるかるた合戦に、かるたなんかに全然興味のない、小倉こまち(主役・夏帆)が塩崎ありさ(南沢奈央)と組んで出場して、勝利をを勝ち取るという単純なストーリー。
ただし、このドラマは、全編、富士&富士宮地区でロケが行われ、学校の風景はすべて、富士高で撮影された。


今、中古品のDVDが1000円くらいで発売されているので、欲しい方は↓
Amazon | P&Gパンテーンドラマスペシャル かるた小町 [DVD] -TVドラマ

でも、新垣結衣主演の方が、500円くらい高い!!!!!! 「なんてこった」
Amazon | 新垣結衣主演作品 P&Gパンテーンドラマスペシャル トゥルーラブ [DVD] -TVドラマ



 ことの始まりは、職員室にかかってきた静岡県庁からの一本の電話である。フジテレビの制作室から、ドラマの背景が富士川の合戦であるので、どこかドラマ作りに協力してくれる富士山のよく見える高校を紹介して欲しいとの要望がありましたが、富士高はどうですか?という主旨だった。
フジテレビ側は、富士高がかるた競技の名門であることも知らない様子だったとのこと(悔しい)。しかしながら、静岡県庁でたまたまその電話に応対した方の友人が富士高かるた部の出身(後で中村仁美さんと判明)なので、とりあへず富士高校に電話してみたとのことだった。


 富士高校側としては、この種の電話を誰が対応して良いかわからず、これもとりあへずかるた部の顧問(ワタシ)に繋いだ。こんな面白い話を断るハズがない。
とにかく前向きに考えると電話を切って、管理職連中には、「こういう話を断るわけにいかない」「光栄なことであり、むしろ、地域の進学高としての義務」とかなんとか理屈をつけて説得した。
 管理職の回答は、「生徒の教育活動に支障がない」というのがたった一つの条件で、それ以外は何もなかった。


 しかしながら、高校でドラマを作る限りは、その他にも規制があるらしく、富士高の制服を使ったものの、ネクタイはリボンに変えさせられた。主役達に制服を提供して貰うことになるのだけれど、この時は、かるた部のOG達の制服をちゃっかり借りた。また、放課後の部活動練習風景は、野球部の肖像権(なんと、野球部だけは肖像権が県高野連に所属すしているらしい)の関係で、野球のシーンが映り込まないような工夫が必要だった。
 
 早速、東京からロケハン(ロケ地ハンティング)が着て、富士高のロケ場所(柔道場・職員室・定番の屋上)などをくまなくまわった。富士高以外のロケ地もいろいろ調べてまわっていた。


 実は、このドラマの製作をきっかけに、NPOフィルムコミッション富士が正式に発足したのだ。
FCFUJI - フィルムコミッション富士 (fcfuji.com) 

このドラマ以来、富士フィルムコミッションさんのお仕事をちょっとだけお手伝いしたことがあるのだけれど、今や、全国有数のドラマロケ地として、フィルムコミッション富士は大活躍である。(皆さんもエキストラとして参加して下さいな)
日曜劇場『さよならマエストロ~父と私のアパッシオナート~』|TBSテレビ

これも全編富士市ロケ。


 富士高校内の撮影の責任者がワタシで、富士高以外のロケは、このフィルムコミッション富士が担当することになった。
富士高校で撮影されたのは、
①富士高野球部の炊き出し部屋(あのトタン屋根のボロい部屋、なぜか、撮影監督のお気に入りとなった)
②校舎の屋上(ドラマを見ていると、よく屋上のシーンが使われるが、理由は、他に誰も来ないという単純な理由からだ)
③職員室(いろんな先生にエキストラとしてでてもらった)
④正面玄関(このロケでは、時計を隠すが大変だった。実際の時刻が映されるとまずい)
⑤体育館の始業式風景。


 さあ、この体育館の始業式風景がヤバイ。とにかく全校生徒並のエキストラを集めなくてはいけない。しかも、高校生限定だ。ワタシ達が選んだのは、進研模試の日。休日なのに全員登校する模試のあとで、ロケをやってしまおうという魂胆だ。しかし、あくまでも希望者だけであるので強制は出来ない。ことあるごとに生徒にお願いして、進研模試の終了後に残ってもらうことにした。ありがとう、当時の現役生のみなさん、お陰様で無事に撮影することができました。
次に大変だったのが、夜、独りぼっちでたたずむ主役の撮影と、かるたの練習風景。
 独りぼっちで夜にトタン小屋にいる風景など簡単と思いきや、道路に隣接しいるがために、本番中に車の音が聞こえると撮り直しになってしまい、なんと深夜2時頃まで撮影が長引いた。体育館柔道場を借りての練習風景は、これも生徒が帰った後におこなったので、深夜になった。


 さあ、最後は、米の宮神社でのかるた合戦のロケである。ところがこの日、ワタシは横浜で大会があり、部活動の引率で富士市を離れなければならなかった。夜の10時頃、ロケ地に慌てて馳ずるとまだ、ロケは終わっておらず、最後の大団円には間に合った。


 てなことで、てんわやんわのロケが終わるのだが、教員としての仕事では味わえないスリリングな日々を経験した。教員って本当にのんびりした職業だと思う。忙しいと言っても相手は(大人とはくらべものにならないくらい)従順な生徒達である。授業が多少遅れても、一年間のどこかでリカバリーすればいいので、そんなに焦ることはない。困ったら定期テストの範囲を少なくすればいいだけの話である。
 ところがだ、ドラマ撮影で、一番の激務はタレントさんのスケジュール管理である。分刻みでスケジュールが組まれて、ワンシーンが撮影されていく。撮影が無駄になればギャラも増える。しかも、天気は素直に従ってくれない。今回は雨にはたたられなかったものの、極寒の1月~2月の撮影だった。女優さん達の防寒着を持って待機するADさんやマネージャーさんも大変だ。 これらの撮影スケジュールは、助監督が担当していた。助監督は2人くらいいて、いつも激論していた。テレビドラマの世界では、誰もが監督に憧れるものであるが、このクソ忙しくて責任の重い助監督時代を経ないと監督の地位には上がれないのだ。
 
 そういえば、かるたの指導としてお台場のフジテレビ本社にも一度出かけた。観光客(見学者)としてではなく、立派な関係者としてあのフジテレビ本社ビルに入っていくのは気持ちがいいものである。ただ、あのお台場本社は交通の便が悪く、タレントさん達からは評判がわるいらしい。一度行ったきりのワタシでさえそう思った。新橋からの道のりが面倒くさい。


 こういう外部との接触って、我々「井の中の蛙」状態の教員にとってはとても大切なことだと思う。
教員と教員、生徒と教員との関係さえこなせば、実際にはこまらないのだけれど、それだけでは人間的に豊かにはなれない。これは若い教員達への還暦老人からの大きなメッセージであるが、教員以外の仕事を垣間見るのは本当に大切だと思うよ。
 彼らTV業界の人達の、「即断、即決、即行動」のスピードは信じられないほど速かった。


今、再任用教員として、生徒に一番要求しているのは、「起立・礼・着席」のスピードである。
教員が授業教室に入る、生徒はチャイムがなるまで先生方を無視している。まるで、先生など存在しないかのように振る舞っている。チャイムがなると係の生徒が号令をかける。そうして、今度はクラスと生徒がやっと立つ。やっと全員立ち上がると、今度は、「気をつけ」(?)の号令をかける。やっとみんながしっかり背筋を伸ばして、やっと、「礼」の号令がかかり、その後も、気をつけの姿勢に戻ったのを確認して、「着席」の声がする。
 おいおい、こんなゆっくりに挨拶する業界など、学校以外にないよ。
どこのテレビドラマでも、上司が部屋に入ってきた途端に、部下は立ち上がり頭を下げるだろう。このスピードが大切なんだ。


 さあ、そろそろ、清水東高校時代の話にうつろう。 






 












Received — 2024年4月25日 tommy先生の「世相を斬る」

還暦老人進路指導を語る

著者: tommyjhon
2024年4月25日 06:39
全国の毒舌ファンの皆様 おはようございます。

 ということで、本日は好評連載の「還暦老人教員時代を語る」シリーズ第●●弾


その前に、本年度より、再任用ハーフ教員となり、1ヶ月。
その現実報告
①給料は16万円くらい。(思ったより高かった)②月曜日休み、水・木が午前中の勤務(メッチャ楽、学校行事やHR活動に関わらなくて済む)③授業の教材作りは家で。④4月はタケノコ掘りとワラビ獲りに忙しかった。⑤退職金がまだ振り込まれていない(未確認かも)⑥家事を一杯している。(洗濯は当たり前、夕食作り)⑦煮物にチャレンジして高評価(タケノコとワラビの煮物、鳥レバーの甘辛煮)⑧砂糖・みりん・醤油は1:1:1であとは応用なんだ。・・・・・・と、ハーフ教員を満喫しているのさ。




 さて、連載企画では、富士高校3年学年主任となったとなっている。
結果を先にいうと、凄い合格実績だったんだ。
進路室だより2022.pdf (pref.shizuoka.jp) 某F高校の『進路室だより』は、ありがたくにも過去20年間の合格実績を掲載してくれていて、ワタシの学年は「平成25年」の数字です。(業界関係者はかなり驚く)

 この要因は、担当する先生方が素晴らしかった事に尽きる。何が素晴らしいって、①面接を毎日のようにやってくれたこと。(生徒の意識や様子がすぐにわかる)②学習時間(と内容)をよく把握してくれたこと。の2つである。
ワタシが理数科担任をしていたとき、よほどのことがなければ、平日の昼休みは「面接時間」だった。生徒の食前、と、食後の2つにわけて、毎日2人ずつと面談(中身は近況のおしゃべりだった時もある)していた。この学年団を牽引していたW先生は、朝の日直の御用聞き(死語?)と必ず毎日15分の面談タイムを設けていた(こういうところを尊敬している)。とにかく、生徒を把握するためには、生徒とよく話をしなければならない。たったこれだけだと思う。


 次の学校に転勤した後、年間行事予定表に「生徒面談」と書かれており、その時期にしか面談をやっていない先生がいて愕然とした。面談なんて毎日、エンドレスにつづいていくものだ。だいたい、どこの学校でも「生徒面談」が4月に行われることになっている。そして、授業が5分短縮となる。この5分短縮という時間割の本当の意味は、「部活動1年生勧誘&練習強化週間」であって、生徒にとって美味しい時期なのである。先生方に、「この時期だけ、生徒面談をしろ」という意味はない。ワタシは、「生徒面談期間」にしか面談をしない担任を信頼していない。


 そして、この好成績をあげる為に、学年主任としてやったことは、毎回のベネッセ模試をよく分析して、生徒の学力動向を完全把握することだった。
ベネッセの担当者さんは、ことあるごとに学校に来てくれる。進学指導に興味のない先生方は、“業者となんだか怪しい関係”とか、“生徒が業者の食い物にされている”と批判しているらしいが、全くお門違いの批判であると思う。ベネッセさんとの共同作業による生徒学力把握は、進路を実現する上で絶対の必要条件なのだ。ベネッセさんの学力把握インデックスにGTZという指標がある。初めて聞いたとき、これはとてつもない計算式を用いた高等情報処理技術であると勘違いしていた。それは、GTZという名前がいかにも高等情報処理っぽく聞こえたからだ。
 だから、GTZという言葉が、G(学習)T(到達)Z(ゾーン)だとわかった時には少しガッカリした。GTZは単純な累積分布でだったのだ。


「平均点ではなくて、累積分布」ということを富士高校の先輩進路課教員からよく言われた。よく、模試成績のデキを「クラス平均」とか「学年平均」とかで比較して「出来た!!!!!」、「出来ない(怒)」と一喜一憂する教員がいる(生徒も多い)。こういう教員もあまり信頼していない。生徒の進学のためには、度数分布こそが重要なのだ。


 度数分布の件は、最晩年の伊豆中央時代に、(先生にならばまだしも、)生徒に向かって、「それは、オーストラリアのおばちゃんだよ」と意味不明な発言をしてしまったことがある。
少し時代は飛ぶが、あらためにその「オーストラリアのおばちゃん」の意味を説明する。(女性蔑視の表現なので、このような差別発言に敏感な人はこれ以上読まないでください)
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オーストラリアのおばちゃんとは、↑の写真みたいな感じの人をいう。なぜオーストラリアかといえば、ワタシが行ったことのある唯一の外国だからである。
18歳以上の肥満率は67パーセント!オーストラリアの現状と国家肥満戦略 | 世界ウーマン | 世界で働く女性のためのポータルサイト (sekaiwoman.com)



度数分布とは、このおばちゃんを輪切りにすることである。


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このブログのために、わざわざ作った画像(↑)
これは、高校3年生の時(特に共通テスト後)に、進学面談でよく使う、志願者度数分布。A判定はだいたい合格する。ところがだ、A判定以外は、志望学部によって、度数分布が全然違う。募集人数の少ない教育学部などは、スリム型の度数分布になり、だたいが、上位判定で決着する(D判定やC判定からの逆転合格が少ない)逆に経済学部や工学部などは、B・C判定の数がパンパンに膨らんでいて、2次試験の結果如何においては、B~Dのゾーンで普通に逆転がある。
 要するに、オーストラリアのおばちゃんとは、この志望度数分布が、どのような形をしているかによって、合格までの道のりが大きく違うことをあらわした言葉なのである。


 そして、ベネッセの模試につけてある、GTZというのは、この度数分布早見表のことであって、この「オーストラリアのおばちゃん指数」に1年次から慣れ親しんでおくべきなのだ。
ただ、これはあまりにも女性蔑視表現なので、一般には、壺の形であらわしている。
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これを、ハクション大魔王型とよぶ。(SATBCは、まさしくベネッセGTZによる大分類)
模試成績でいうと、「上位層は、確実に東大に入れそうな人材がいるが、SからAの層が薄くて、成績下位者も多い状態」のことだ。



土器に喩えるとこうなる。↓
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ほらね、教員組織における模試の活用(フィードバック)って、平均点ではなく、度数分布だということがわかるでしょ。
お陰様で、富士高の学年主任時代に受け持った生徒達は、縄文時代の壺のような形をしていた。
もちろん、Sクラスはそれほど数が多くないが、Aクラスの層が異様に厚かった。
このような度数分布を持つ学年として、どのような進路指導がより生徒の進学を支えていくのかの答は、もう出ている。
A層を応援して、育て上げることなんだろうね。


こうやって、生徒の進学指導をしていくのである。


次回は、いよいよ、富士高時代最後のコーナー、「Tommyセンセ、テレビドラマを製作する」になります。
Received — 2024年4月23日 tommy先生の「世相を斬る」

還暦老人の3年学年主任時代

著者: tommyjhon
2024年4月23日 05:49
全国の毒舌ファンの皆様 おはようざいます。Tommyセンセです。

ということで、還暦老人の振り返り記は、いよいよ3年の学年主任@富士高に突入する。
 この高校は、地域トップの進学高であるので、どこの大学にどれくらいの生徒が進学していったかという数をいろいろな形で争うことになる。高校の実力を測る基準というのは存在しない。各高校を比較することにどれくらいの意味があるのか?という反論があることも承知している。ただ、他に「高校の力」を計る基準が存在しないので、比較好きの人間(すべてそうだ)どもは、直ぐに国公立大学進学者数とか、難関大進学者数とか、有名大進学者数とかで比較するのが好きになってしまうのだ。


 保護者達からは、地方の国公立大学に進学して、首都圏の有名私立大学に進学した場合と比較してどれくらいのメリットがあるのか?と単に国公立大学進学者数を争うこのバカ狭い業界に対しての文句を言われる。
 これには多くの反論がありとても列記しきれないのだが、教育に携わるものとしては、断然、国公立大学の方に合格することがいい。国公立大学進学という言葉から国公立大学合格という単語にさりげなく変えたのも少し意味がある。国公立大学に合格するためには、5教科7科目(今は8科目?)のすべてをしっかり勉強しなければならない。理系の学生は国語(特に古典)とかの文系科目が苦手な人が多いのだけれど、建前上、理系であっても国語が出来なければ上位国公立大学に進学できない。
 文系は特にそうで、文系(数学が苦手)な生徒であっても数学が出来なければ上位の大学に合格できない。特に、文系の大学序列は露骨に個別大学試験の科目数となっている。東大文科の試験科目は、国・数・英・地歴2科目の5科目、次に偏差値が高いとされている一橋大学は国・数・英・社会の4科目、次に続く旧帝国大学(旧帝と略す)が国英数(もしくは地歴)の3科目、旧帝に次ぐ有名大学(千葉大など)も3科目、一般国立大学が国英の2科目、国公立の周辺大学では、1科目となっている。もちろん、個別試験の前段階で必ず受験する共通テスト(昔の名前はセンター試験、もう少し前は共通一次)は5教科7科目の全部を受験しなければならない。


 そもそも、大学とは、スペシャリストを養成する場ではなく、ゼネラリストを育成する場なのである。
 ゼネラリストとは?スペシャリストとの違いやメリット・デメリット|20代・第二新卒・既卒向け転職エージェントのマイナビジョブ20's (mynavi-job20s.jp)
 <コピッペ、読み飛ばし可>
ゼネラリストとは、幅広い知識に精通した多角的な視点を持つ人材のことです。
英語の「general(ゼネラル)」が語源で、その意味は「全体的、全般的」と翻訳することができます。また、よりネイティブ的な発音に近い「ジェネラリスト」と呼称されることもあります。

主に人材登用などのビジネスシーンで用いられ、スペシャリストとの対比で俎上に挙げられることが多い用語です。



ゼネラリストってどういう人?3つの特徴
豊富な知識と多角的な視点
ゼネラリストと呼ばれる人材は、特定の分野に知識や経験が偏っているのではなく、幅広いスキルや知識を普遍的に備えている点に大きな特徴があります。
たとえば、過去に多様な職種や部署を経験し、豊富な分野の知識を有している人材は、典型的なゼネラリストと呼ぶことができるでしょう。

多様な知識と経験の裏付けによって、物事を多角的な視点で見ることに長けており、バランス感覚に優れた独自の意見を出すことができます。

客観的な判断力を有する
客観的な判断力を備えている点もゼネラリストに特徴的な能力です。


ゼネラリストは経理や人事、商品企画といったビジネスの幅広い分野の知識・経験に精通している人材です。そのため、特定の部署の意見や理屈に偏らず、客観的かつ公正な視野から意見や発言を出すことができます。
常に全体の利益を追求し、公平な立場で組織を見渡せることから、ゼネラリストは管理職や監督職として特に重宝される存在です。

臨機応変な対応力
組織運営において、不測の事態が生じることは決して珍しいことではありません。


病気や家族の不幸を理由に人材に欠員が出たり、社会情勢の変化によって以前の常識が通用しなくなったりなど、その都度臨機応変な対応力が求められます。
その点、ゼネラリストは知識や技能の幅が広いため、不測の事態に直面したときでも、過去の経験から最適解を導き出すことができます。

このように、さまざまな事態に備えて臨機応変な対応力を有している点もゼネラリストの特徴です。


<コピッペ終了>


 この通り、普通科の学校というのは、ゼネラリストの育成するために存在する高校なので、多くの教科を勉強しなければならない!!!!!、そしてその多くの教科で結果を出さなければならない。というミッションが「普通科高校が誕生した時点」から存在する。なので、大学受験は、ゼネラリストとしての資質を選抜するのであれば、よりマルチな科目で高得点をとれる人材を選抜するシステムを作り上げるべきなのである。
 その点でいえば、受験科目を国・英・社(地歴・公民)に絞って平気で大学を名乗る私立大学の方がダメ大学なのだ。今の所、私立大学で一番優秀なのは慶應大学であるけれど、慶應大学の受験科目は、文系なのに数学が必修であることなど、やはり理念的にも優秀である。現在の日本経済を牽引しているのは慶應経済の連中なんだが、それなりに納得はしている。


・・・・・このテーマって、くどくなるなあ。(反省)


 とにかく、どことなく、進学高って「国公立大学(難関大学)の合格者数」を争う所という評判ばかり目立つのだけれど、もちろん、それだけではない。ただ、それ以外に比較する指標がなく、その指標が実際のところの(国家の)教育理念と合致していることをいいたいのである。


 比較、比較といいますが、どこと比較しているのか。これも、反論は多数あれど、ワタシが一番信頼しているのは、ダイアモンドセレクトである。
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他にこんな特集を組んでくれる雑誌は他にない。ワタシは2012年ころから定期購読している。


 そして、このダイヤモンドセレクトの特集として、全国「大学合格力」が発表されていることに、逆に注目してほしい。大学合格力に注目しているのは、あくまでも“大人達”である。子ども達には、それぞれの道があり、その生きる場所があるので、「大学合格力」によって子どもの人生が決まることはない。
自分の子ども達は、やはりそれぞれの道を選択し、長男と次男は全く違う高校生となった。したがって、高校を「大学合格力」だけで決めることには無理がある。もう一度言います、「大学合格力」のランキングは、あくまでも大人の話なのだ。


 つまり、高校における「大学合格力」とはシステム論とかマネジメント能力とかいう大人の組織の問題であって、組織として、その高校がどのように築かれてきたのかが反映されていると思う(極論だけど)


 学年主任という中間管理職となり、その後は、教務課長も進路課長も長く経験したけれど、これら教員中間管理職の仕事は、「組織力を高め、システムとして機能させる」ことである。まあ、教員クラスの担任みたいな感じだ。


 さて次の話題。組織力としての教員団を率いることとなると、次は「目標設定」となる。
今や、この(正確には何という名前か知らない)マネジメントシステムは、静岡県下の公立高校にも上から目線で押しつけられていて、各学校には、学校経営計画書なる文書があり、この学校経営計画書に基づいて教員団が仕事をすることになっている。そして、「目標」がある。ところが、学校の経営目標って数値化することが出来ない。“いい学校”ってどういう学校なんだい???
数値科目標のために、学校満足度アンケートなんかが連発されて生徒に沢山お願いしているが、これは学校経営を数値化して可視化するだけの問題で、可視化したからその学校は上手くいっているわけでもない。
 ただ、進学実績に関しては、数値目標が極めて設定しやすい。もう結果のすべてが数字だからである。(もちろん弊害もある)


 進学実績(すでに数値化されている)でどのように数値目標とするか?一番の基準は、過去実績(しかも前年度実績)である。えてして進学高で学年主任を引き受ける場合、その直前の学年が、わりと低い数値であると気楽だ。逆に、前年の進学実績(すべて数値)がとってもいい成績だと、冷や汗がでてくるというものである。
ところが、同じ高校に同じ入学定員で毎年入学してくるとはいえども、その全員が過去の学年と同じ状況とは限らない。定員減などの外的要因がなければ大きく狂うことはないが、それでも微妙に違う。
 その微妙な違いをしっかり認識して、進学に関する「目標設定」を上手にやることを手助けしてくれるのが、教育総合商社(教育コングロマリット)のベネッセさんである。次回はベネッセさんとの話になるのだが、昨日の月曜日、ベネッセさんは会議日であったはずだ。月曜日は岡山本社には幹部達があつまり、各支社には末端までの社員達があつまってミーティングを繰り返すことになっているらしい。このブログ、ベネッセさんの社員ミーティングで話題になったこともあると聞いている。同じ教育コングロマリット河合塾でも同じ事があったと耳にしている。
 教育業者さん達は、このブログの重要なお客様(儲けていないけど)なのだ。
気合いをいれて続けます。次回をお楽しみに。
Received — 2024年4月19日 tommy先生の「世相を斬る」

還暦老人志賀高原の高原教室を語る

著者: tommyjhon
2024年4月19日 06:10
全国の毒舌ファンの皆様 おはようございます。Tommyセンセです。

 ということで、前回までの話で、2011年度の富士高高原教室は、志賀高原で行われることになった(学年主任的に言うと、行うことにした)。
1年限りの志賀高原であるし、観光協会・ホテルなどすべての方々が好意的で、「何でもやって下さい」というスタンスだったので、やりたいことをやった。中には、この無鉄砲すぎる行動をこころよくは思っていない教員もいたとは思うが、お目付役の教頭先生がすべてを大目に見てくれたので、有り難かった。
 
①まずは、もう出会いないかも知れない奇跡。
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 写真は、志賀高原から山一つ越えた、草津白根山付近の地図である。
ハイキングマップ | 万座温泉観光協会 (manzaonsen.gr.jp)

高原教室では、A隊、B隊とも共通コースとして、草津本白根山を目的地としてトレッキングに出向いた。この本白根山は、(高山植物の女王)コマクサの群生地として知られ、高原教室中の7月第3週はまさに、満開状態で、一面のコマクサ畑を見ることができた。
 
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溢れるほどの「コマクサ」の山 草津本白根山: 山と花の物語 (cocolog-nifty.com) (このサイトから拝借)

そして、このコマクサの大群生地は、もう二度と見られないかも知れない。
万座温泉・白根エリア | 嬬恋村役場 (vill.tsumagoi.gunma.jp)

2018年の噴火以来立ち入り禁止となっている。


②もしかすると、みなさんも見ることが出来るかも知れない絶景
 
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石の湯のゲンジボタルが乱舞してます! – 志賀高原 SDGs STUDYTOUR (shigakogen.jp)(ここから写真を拝借)


 7月の志賀高原には、ゲンジボタルが大量発生する場所がある。高原教室中に、この蛍の乱舞を見に行こうという話になった。当然ながら、旅行日程表にはなく思いつきである。ワタシ達は、待機しているバスの運転手さんに頭を下げ、もし、蛍がランデブーし始めたら生徒全員で見学に行くから運転して欲しいとお願いした。
しかし、現地の人の話によると、毎日蛍が飛び交うわけではなく、大量に蛍が飛ぶ日もあれば、全然飛ばない日もあるという。そこでワタシは、毎日偵察隊を派遣することにした。(蛍の住処とホテルの間は車で20分ほどかかる)こういう企画が大好きだったのが持田(あえて実名)先生で、こころよく偵察隊を引き受けてくれた。
滞在3日目かな?
先生からホテルに連絡が入り、「蛍が飛んでいる。しかも凄い数だ」と教えてくれた。ワタシ達は、ホテルの全館放送で疲れて寝ている生徒もたたき起こし、バス8台連ねて、蛍の集団行動を見に行った。若い人は知らないと思うけれど、蛍は動きが遅くて簡単に捕まえられる。だから、蛍を手のひらで光らせることもできるのだ。
生徒が300という大集団だったのに、蛍君達は我々に答えてその100倍くらいの数で舞ってくれた。


③もはや、絶対に出来ない、閉校式。
 ご存じの通り、志賀高原は1998年の長野オリンピック開催地である。長野オリンピックは、スケート競技が長野市内で行われスキーアルペン競技は白馬と志賀高原で行われた。例のスキージャンプの金メダルは白馬で行われたものである。スキーのアルペン競技は白馬村の八方尾根が日本で一番ふさわしいと思うのだが、基本的にアルペンスキーの大部分は、志賀高原で行われた。
 もう誰も覚えていないだろうが、スキーリゾートと言えばプリンスホテルである。
堤義明 - Wikipedia
1998年というのは、西武グループの全盛期で、日本のリゾート業界を牛耳っていたのが西武グループ(プリンスホテル)の堤義明である。そのプリンスホテルのスキーにおける本拠地が志賀高原である為、志賀高原にはオリンピック関連の様々な豪華設備投資が行われた。その残骸(遺産、インフラ)がこれで、
志賀高原総合会館98施設のご案内 - 志賀高原 SHIGA KOGEN National Park Official Site
ちょっと山の上の高原には不釣り合いな大きなホールである。
 
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 この大ホールを含めて会館すべてを24時間、しかも(志賀高原のホテル宿泊者だから)無料で貸してくれるという。前回のページで書いたが、富士高高原教室の最大イベント「閉校式」は、従来からキャンプファイアーとして行っていたので、天気には勝てず、泣く泣く断念してホテルの宴会場で御茶を濁すことも多かった。それを、このホールを使ってやることになった。そして、この施設の駐車場にはキャンプファイアーの施設もあり、そこを使ってもいいという。
 おいおい、閉校式は、完全な歌謡ショー、富士高2年生の大コンサートになるぞ。
ということで、各クラスのクラス演劇や有志達の出し物など、プログラムが満載となった。MCを努めてくれた2人のうち、一人が川島君である(かるた関係者諸君、今でも東京で活躍しているあの川島君だよ)、この舞台の最後は、それまでの高原教室の写真を大量に使ったスライドショーで生徒のピアノ伴奏とともにフィナーレを飾った。これが夜中の11時頃。
 計画では、閉校式は夜7時から9時ということになっていた。でも、プログラムを見るととてもその時間で終わらない。
「まっ、いいか。俺が謝ればいいことだ」と腹をくくって、閉校式はおしておしての時間延長を繰り返しながら進んでいった。舞台のプログラムが終わったのは11時を過ぎていたのであるが、ここから、キャンプファイアーが計画されていた。もちろん、キャンプファイアーもやった。
だって、キャンプファイアーにつきもののフォークダンスもしっかり練習してきたのさ。


 ということで、キャンプファイアーが無事終了し、生徒達がホテルに戻ったときには、25時を過ぎていた。夜中の1時まで騒ぎ続けたのだが、志賀高原なので誰からも苦情がこなかった。お目付役の教頭先生(加藤先生といい、富士高の先輩でおある)は、このことをその後、一度も公言しなかった。感謝感激m(_ _)m。
ワタシも、今初めて書いた。


 この頃の高校生は、大人しくて覇気がないといわれている。2011年富士高2年生は絶好調で、4泊5日の高原教室をエンジョイしまくった。たった10年違うだけで、なんでこんなに大人しくなってしまったのだろう。コロナとマスクは、若者の勇気と活気をすべて奪っていった。


 さて、この高原教室のフォークダンス。 学校での練習から、すべてを仕切ったのが久保田成美さんという生徒である。昔と違ってフォークダンスなどをやったことのない高校生達の練習で、彼女はバッサバッサと仕切り始め、最後の方では、彼女の一声で300人全員が一斉に動き踊り出すようになった。彼女は、ミュージカル俳優希望の生徒で、進路も某音楽大学のミュージカルコースに進んでいった。(富士高って勉強ばかりではないのよね)
このブログを書くために、しばらくぶりにこの名前で検索したら、今でもミュージカル(オペラ)の舞台で活躍しているらしい。
久保田成美(@kubota_narumi)さん / X (twitter.com) 

 学年主任冥利に尽きる!!!!!!!


この久保田成美さんの活躍ぶりを見て、ワタシは、絶対、彼女に卒業式の答辞やってもらおうと心に決めた(恥ずかしいから誰にも言わなかったけど)。
高原教室が終わると、富士高生活も折り返し点を過ぎ、いよいよ受験が頭によぎる時期に入っていく。
Received — 2024年4月18日 tommy先生の「世相を斬る」

還暦老人学年主任2年目を語る、それは2011年のことです。

著者: tommyjhon
2024年4月18日 05:22
 全国の毒舌ファンの皆様 おはようございます。Tommyセンセです。

 つい数時間前(まだ4月17日だった)に今度は四国で震度6弱の地震が起きた。大きな被害はない模様だ。震度6弱ではたいした被害がでないのだろう。能登半島では震度7だった。PCの前に座ってじっくり情報を集めているとX(旧Twitter)で東海地方というワードがトレンド入りしている。もう東海地震が起きるといわれ続けて半世紀になろうとしている。思い出せば、東海地方静岡県が直接の大きな被害にあったのは、ちょうど50年前の伊豆半島沖地震が直近だ。
伊豆半島沖地震 - Wikipedia

 この50年間、ほぼ全国すべての地方で大きな地震の被害に見舞われた。北海道、東北、新潟、東日本全体、阪神淡路、熊本、能登、そして昨日の高知愛媛。なぜか、東海道53次の街道筋だけが無傷だ。戦時下の東南海地震は、最初に高知県あたりが大きく揺れて次に愛知三重付近が震源地となったらしい。この過去の経験から、(いつきてもおかしくない)東海地震は、(いつきてもおかしくない)南海トラフ地震と名を変えた。ここ数日~1年、四国の次は東海地方だと思い備えておこう、みなさん。


 こんな時に、不謹慎だと思われるが、仕方がない時系列で話していくと、2011年の東日本大震災を語らないわけにはいかない。2011年3月11日はワタシが1学年の主任を終わろうとしている時だった。実は、この時長男がちょうど受験生で、彼は3月12日の埼玉大学後期試験のために上京していてそこで被害にあうのだが、この件はこれ以上書かない。
 1学年主任として一番先に考えたのは、次の年度7月に高原教室がある、我々は高原教室にはたして行けるのだろうか?という問題だ。報道では、福島県の原発事故で拡散した放射線量が毎日報道されていた。東北から避難して生活している様子も毎日のように報道されていた。富士高校2年生は7月の高原教室という高校生の最重要行事で奥日光をベースに尾瀬近辺の登山とトレッキングに行くことになっている。尾瀬とか奥日光とかは東京電力の管理地が多く(尾瀬の水源は東電の管理下にある)、尾瀬近辺には、福島県からの被災者達が避難生活をしていた。


 富士高校の高原教室の歴史は長く、今では60回を越えているだろう。ワタシが勤務していた頃、50回目の高原教室が行われた。かつては、静岡県下の高校では、かなりの数の高校が、このような行事を修学旅行の代わりとして行っていたと思われる。掛川西高校は昭和50年代には信州白馬に行っていた(女房の証言)。富士東高も白馬方面の登山をしていたらしい。ワタシが勤務していた長泉高校でも創立当時は、猪苗代湖&磐梯山が修学旅行の行き先だった。
 ところが、修学旅行であり、かつ300人規模の大移動となると、このような登山メインの旅行は、「大変、過酷、危険」という評価になり、高校はどんどん撤退し、今では沼津東高校と富士高校だけになっている(と、思う)
富士高校の高原教室は、(今は違うが)尾瀬の山小屋に一泊するということもあって、相当な批判も多かった。ただ、高原教室ほど、事前アンケートと事後アンケートで評価が分かれる行事はなく、事前では生徒&保護者は80%くらいの反対があるものの事後のアンケートでは「肯定的意見」が80%以上占めてしまうのだ。つまり、「行きたくないけど、一生の思い出に残る感動的な行事」なのだ。
 登山だけではない。この高原教室で閉校式と称して、奥日光湯元湖の湖畔でキャンプファイアーをやる。ワタシはが富士高校に赴任してすぐの7月、1年生からの“助っ人”としてこの高原教室の引率を手伝った。このキャンプファイアーの時、宿泊したホテルの従業員だけでなく、奥日光湯元温泉に住む方々が見学にきているので驚いた。数人に聞いてみると、この場所では多くの学校がキャンプファイアーをするけれど、さすが高校生が行うキャンプファイアーは、仕掛けも豪華で出し物も面白く、毎年楽しみにしているらしいのだ。ワタシが助っ人ととして参加した時のキャンプファイアーでは、火之神を演ずる副校長先生が(事前の打ち合わせもなく)突然、ゲリラ部隊(演劇部)に拉致されるという大事件が起きた。これで、慌てふためいた高原教室のチーフ先生は、この(実は演劇部)ゲリラ部隊を、数学の公式質問攻め光線(「なんとかの公式を言ってみろーーーーーー!!!!!」)で打ち破って、やっと、火之神が救われて点火される、という手の込んだオープニング始まる凄いキャンプファイアーだった。毎年、こんな感じらしい。


 時を戻そう。2011年3月11日、あと1ヶ月で新年度が始まる。富士高校では、高原教室に関するヒソヒソ話が始まった。「出来るの?????」「他に移動するの?????」「いっそ、普通の修学旅行に戻しては??????」このヒソヒソ話の主役は、教員達である。特に「これを機会に、普通の修学旅行(京都奈良とか、広島とか)に戻そう」という声が多かった。
さて、ここからの主人公は、すべてワタシ(Tommyセンセ)である。なんと言っても「学年主任」だ。もちろん、管理職からは呼び出された。「どうするつもりなの?」「ハイ、考えます。4月の新年度職員会議には先生方全員が納得する代替案を出します」と答えた。当時の校長先生はノーテンキ(鷹揚な)なY先生だったので、「そう、よろしく頼むよ」としかおっしゃらなった。
 さて、考えよう。7月の高原教室をどうするか?
①奥日光、尾瀬は無理である。例え放射線の問題がクリアできても避難民でごった返すホテル街に出かけていくことは出来ない。
②京都奈良に方向転換は絶対にしたくない。このステキな高原教室をここで終わらせたくない。一度止めたら二度と復活しないだろう。
③日程通りに絶対やる。
 ワタシには、腹案があった。先ほど、沼津東高校が高原教室をやっていると書いた。沼津東高校の行き先は、志賀高原である。志賀高原は、福島原発からも遠い。


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 早速、沼津東高校の旧知の先生(日本史の池谷先生)に電話して、沼東の日程や行程などの情報を手に入れた。池谷先生は、資料をファイルにまとめてわざわざ届けてくれたのだ。幸いなことに、富士高の日程と沼東の日程は重なっていない。


 これなら、富士高も志賀高原でできる。理論武装は
①あくまでも「高原教室」というのが伝統の行事である。
②お手本(沼津東)があるのだから、企画にそれほど困らない。
③水芭蕉も咲いている(本当だ)
④冬の志賀高原は、保護者もよく知っているはずだ。(映画とかで)
⑤ホテルはゴマンとある。
⑥次の年には尾瀬&奥日光に戻したい。(やっぱり、尾瀬の方がいい)
と、かなり説得力のあるものになった。そして、先生方には、⑥を強調することで乗り切ることができるだろうと考えた。


 そして、即座に旅行業者を呼んだ。JTBの担当さんは、ワタシの意見をすべて聞いてくれて、早速、ホテル2館(A隊・B隊)を予約し、山岳ガイドの契約も取りつけてくれた。
ここまでを2週間、誰一人相談することもなく、やりきった。2年生の最後の最後の学年会で、2年部の先生方に話をした。学年部の山田先生(日本史の)は、大学時代にワンダーフォーゲル部に所属していた専門家で、ずっと良き相談相手になってくれた先生である。その山田先生が、「つまり、志賀高原という案は、ライトでマイルドな尾瀬になるのだね」と発言してくれて、この一言が決定打となって会議が終了した。もちろん、年度当初の職員会議では、考えられるすべての資料を配付して他の教員に説明をした。そして最後に、「この高原教室は、一年限り企画で、いうなれば、ライトでマイルドな高原教室となります」と締めくくった。勿論、誰も反対の手をあげる人はいなかった。
 おろらく、この3週間が教員人生で一番アドレナリンが出た時である。もちろん、他にやるべき仕事はあった。そして一番学年主任としてやるべきことをやったと思う時でもあった。この決定は、私以外誰も出来ない(学年主任以外、誰もやりたがらないだろう)。


ただし、この志賀高原での高原教室、「ライトでマイルドな」というキャッチフレーズは、地図上、机上の論争であって、下見に行ったり実際に生徒を引率した時には、ヘビーでシビアでデンジャラスな高原教室であった。高低差はまだしも、短い距離でのアップダウンが多く生徒や女性先生方はそうとう苦労した。では、次回をお楽しみに。






 






























Received — 2024年4月17日 tommy先生の「世相を斬る」

還暦老人学年主任時代を語る

著者: tommyjhon
2024年4月17日 07:51
全国の毒舌ファンの皆様 おはようございます。Tommyセンセです。

ということで、教員人生を振り返るの記を再開。


 2010年の春、校内の玉突き人事で学年主任になることを要請された。
ワタシは、勧善懲悪のドラマとかが大好きで、小さい頃からのお気に入りは必殺仕事人である。 




だから、毎日毎日、昼行灯のような生活をしながら、人助けの時には命がけでズバっと斬るような人生を送りたいと思っていた。
管理職の前では、どうしようもなく仕事の出来ないアホ教員、だけど、生徒の味方で絶大な信頼を得ているようなセンセ、
これが理想だ。
だけど、学年主任となると、そうも言っていられない.中間管理職のようなものだし、学校経営に直接関わる運営委員会にも出席するし、生徒の前で演説することもあるし、絶対にミスができない仕事も命じられる。どうも、昼行灯というキャラがなくなるなあ?と心配していた。



 おそらく管理職殿も心配していたのだろう。その初学年主任の部下となる先生方は、8人の面々が全員働き盛りで、教科指導にも優れ、信頼できる方ばかりであった。結果的にその時の担任8人中2人が管理職となり(令和6年現在)、3人が(他の学校を含めて)進路課長となり、2人が(富士高校の)学年主任となった。計算すると一人足りないが、その一人というのが一番敬愛していた物理のM先生で、まさしく担任のプロ中のプロで、当時クラス担任4周目を迎えていた。一度も休まずに担任を4周も続けることなど常人にはできない。ワタシ達は、畏敬の念を込めて「プルシェンコ持田」と呼んでいた。
 若い先生方には、言っておきたい。「自分が学年主任と命じられたのですが、僕で大丈夫ですかねえ」とよく質問されるが、その時は見栄を張るのではく、「その代わり、いい先生を担任にしてください」とおねだりするべきだ。しっかりした人物が学年主任になったり〇〇課長になったりすると、管理職は安心して、ろくでもない教員を配置したり、ミスマッチを作ってしまったりするものだ。教員の校内人事とはこんなもんである。


 初めて学年部の会議があった時、ワタシは即座に「この担任団ならば絶対に上手くいく。ワタシの仕事はこの担任のメンツを3年間、変えさせないことだ」と誓った。その中で、一番信頼を置いていたのは、厳しい教科指導で有名な女性教諭である。この先生の指導プランをすべて採用した。例えばの「学習習慣記録プリント」例えばの集団別集会、などなど。学年主任であるワタシの仕事は彼女を信頼することであって生徒の学習指導は、彼女を信頼すること以外にしていない。


 ある人間がその組織内での地位を上げていく。その時その時、どのような対応が必要なのか? 組織内での人間の生き方を、ワタシは海老沢泰久の著作で教わった。
『F1地上の夢』|感想・レビュー・試し読み - 読書メーター (bookmeter.com)

ホンダF1のチームがチャンピョンを獲得するまでを描いた人間ドラマだ。その中に、このような一節がある。(うろ覚え)
「組織内での地位が上がることとは、YESかNOかの判断のスピードが上がることとなんだ」
とあった。
ワタシは思いだして、とにかく「やる・やらない」を即答するように仕事をした。判断できない場合は、「〇〇まで待って」と必ず返事の期限を決めた。これだけで、組織は上手くいくと思う。中間管理職として必要なのは、“着手時期”の指示と、“完了期限”の把握だけだと思う。あとは優秀な方々がやってくれる。


 回想していくと、この学年主任時代の1年目も困難な仕事(盗難事件が続発したこともあった、不登校も当然あった。)や悲しい出来事(生徒が突然死したこともあった)だらけだった。でも、今までほとんど忘れていた。それは、1年生の3月11日に、これらの困難を吹き飛ばすような大惨事に見舞われたからだ。
福島原発をはじめ東北地方が大惨事に見舞われたのだけれど、実は富士高もある行事が存亡の危機に立たされた。高原教室である。


 では次回をお楽しみに。
 
  
































Received — 2024年4月15日 tommy先生の「世相を斬る」

花見で凄いところに行ってきた

著者: tommyjhon
2024年4月15日 07:15
全国の毒舌ファンの皆様、おはようございます。Tommyセンセです。

ということで、好評の“還暦老人教員生活を語る”シリーズを中断して、昨日の日曜日に遠征した高遠城跡の花見について記しておきましょう。
富士市から片道3時間、デート(若者~還暦夫婦まで)にはもってこいのドライブでありました。


高遠城とは、
高遠(たかとお)城址公園:伊那市公式ホームページ (inacity.jp)

長野県伊那市の旧高遠町は、静岡県民にとっては馴染みの薄い場所でありますが、中部横断道と中央フリーウェイを使えばだいたい3時間ほどのドライブで到着してしまう近い長野県なんです。
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 中央高速を飛ばして、諏訪インターでおります。そこからはナビにしたがって、杖突峠(つえつきとうげ)といういかにも急坂の峠道をぐんぐん登ります。最高標高点までまで15分くらいで、難しい峠ではありません。あとは、ひたすら整備された道路を真っ直ぐに南下するだけ、山肌の散村に植えられた満開の桜を眺めながらのドライブをしていると、あっという間に高遠の町の中心地に到着してしまいました。
 
 ところが、駐車場まであと500m程度の所から大渋滞。2月の河津桜を思い出させる大渋滞。イライラをおにぎりで紛らわせながら、やっと市営の臨時駐車場に到着。高遠城公園まで500mくらい歩くことになるが、その分、ここは無料。


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真っ直ぐに城まで続く商店街。昔ながらの商家が残るイイ街でした。帰り道、我が奥様は、「都会ではもう売っていないのよねえ」と言いながらこの商店街の衣料品店で割烹着を買っていた。
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高遠城は、小高い山なので、かなりの階段を上り一つの曲輪に到着。一体に植えられているサクラは、「タカトオコヒガンザクラ」という固有種で、老木なのに花勢が落ちないでいる。立派だ。
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すげーーなあ。
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 ワタシも一枚。バシャ!!!!!
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いよいよ、城跡の本丸に到着。桜並木ではなくて、サクラの群生。どの角度から見ても満開。
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本丸跡だから、平坦な場所となる。
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写真では、伝わらないと思うが、ワタシが一番感動したサクラ越しに見える早春の中央アルプス。一度登ったことのある木曽駒ヶ岳や千畳敷カールもよく見えた。
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サクラ越しに高遠の市街地を臨む。
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こじんまりとして落ち着いたいいまち街だなあ。道路はどこも大渋滞。


帰路も同じ道。途中で、そば屋に寄る。
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右のようなサクラが街道中の至る所にある。この蕎麦やで1時間待ち。


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名物の「高遠蕎麦」を注文する。(高遠蕎麦なるものを初めて食べたので、他の店でも同じモノが出されるかどうかは検証していないが)
高遠蕎麦は、そばつゆの代わりに、味噌を出汁で溶き、薬味として、辛み大根、ネギ、ミョウガを入れて食べるスタイルのことを指すらしい。今、ワタシは蕎麦といったらかけそば系の温かいつゆの蕎麦を注文する。その方が、そば屋の実力がでると自分では思っている。ただ、今回は、高遠蕎麦に敬意を払って注文してみた。味噌を出汁で溶いたつけ汁の味がそれほど濃くなくて美味しくいただいた。


 と、高遠を後にして一路富士に戻る。
 中部横断自動車道 富士川第一橋(山梨県南部町ー身延町) | Bridge a day (ameblo.jp)
このブログ記事から拝借した画像
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中央高速から中部横断道を南下して家に帰る途中、
この富士川橋を渡ることになる。ワタシは、この橋が作られる様子をずっと見てきた。人一倍この高度感を体験しているので、どうしてもこの橋が渡れない。
下りも上りも、この橋を避けて途中のICで降りることにしている。


 世界3大怖い橋の一つだ。


では今日はこれでおしまい。これからタケノコ探検に行ってきます。




Received — 2024年4月12日 tommy先生の「世相を斬る」

還暦老人の校内人事

著者: tommyjhon
2024年4月12日 07:17
全国の毒舌ファンの皆様 おはようございます。Tommyセンセです。

ということで、新天地での授業は3日目。金曜日だから、今日を終えればお休みが待っている。再任用ハーフの休みって凄いぞ、正規の先生方には大変申し訳ない気がするくらいの楽々週末である。
土曜日⇒お休み、なので前任校の部活応援に行く予定。
日曜日⇒お休み、なのでお花見で遠征にいく予定(長野県伊那の高遠城)。
月曜日⇒お休み、勤務形態によって月曜日が定期で休み。
4月16日火曜日⇒一日勤務。
4月17日水曜日⇒学校全体が遠足。なので再任用ハーフ教員は用無し、なのでお休み。
4月18、19は学校
4月20日はもう次の週末。


さて、好評連来中の「過去を振り返る」シリーズは、校内人事遍歴に。
2000年度に「全国高総文祭静岡大会」、つまり地元開催を仕切ることで長泉高校での仕事に区切りをつけた。


2001年度に富士高校に赴任する。そして、普通の感じで1年担任からスタートする。部活は百人一首部顧問。


2002年度に2年生の担任となる。ところが、部活動は新聞部顧問!!!!!!、その理由が「百人一首の専門家の大学院卒の先生が赴任する」というものだった。その先生とは、嶋先生のことで、2年間の内地留学に行ってらっしゃったのだ。富士高校新聞部は全国で何回も優勝するなどの超名門部活であったのだが、その新聞部を全国的に有名にした、西家先生がこの年に転勤されることになり、新聞部顧問の“座”がぽっかり空いていた。
「君がウンと言わないと、次の人事が進まないよ・・・・」の殺し文句で校長室に拉致される「一幕」の第一回目である。


2003年度に普通に3年担任となる。クラスは1組。2組の担任が八木監督・・という布陣だった。伝説ともいえる八木監督、朝のHRの連絡に「1組の黒板を見ろ」という傑作をのこした方でもある。八木監督は10年後にワタシを救ってくれた大恩人だ。この学年は、学者になっている奴も多いが、表現の世界で活躍している奴も2人ほどいる。
193-10.pdf (richard-strauss.sakura.ne.jp)  あなたの心に芸術の息吹を (klavier-begleiter.com) の井出徳彦君

そして、なんとウィッキにも登場する。
和田真希 - Wikipedia (ワタシのFBの読者なので、「イイネ」くれるかも?)



2004年度普通に次の1年担任となるものの、次年度から全国高等学校文化連盟小倉百人一首専門部事務局長というやたら長い名前の役職を引き受けることが決まる。「君がウンと言わないと、次の人事が進まないよ・・・・」の2回目。


2005年度、一度担任を降りる。それは、全国高等学校文化連盟小倉百人一首専門部事務局長というやたら長い名前の役職の仕事がどれくらいのものかわからずにいたので、我が侭をいったからだ。「担任休まして!!!!!」というお願いでもあった。


2006年度、なんと理数科の担任を要請される。おいおい理数科って理数科だよ。東大や京大、医学部なんかに沢山進学するクラスだよ。ワタシは公民科の教員であって、3年間の理数科カリキュラムに、公民科の授業なんて2時間しかないんだ。なんで俺がやるの?????
「君がウンと言わないと、次の人事が進まないよ・・・・」の3回目。この時の学年主任が池田高雄先生であって、「数学の面倒を俺が見るから、クラスの面倒だけ見ていればいいよ」という殺し文句で引き受ける。先輩の頼みを断ってはいけない。


2007年度は、これらの仕事を継続する。そしてこの年、全国高等学校小倉百人一首競技かるた選手権大会で11年ぶり12回目の優勝を果たす。実は、富士高校に赴任した当時は、静岡双葉高校というお化けみたいに強い高校に全国大会を阻まれていたのだが、この前の年あたりから上昇気流にのりはじめ、久しぶりの優勝となった。全国高等学校文化連盟小倉百人一首専門部事務局長というやたら長い名前の役職だから、監督ではなく、この大会の開会式司会とか、閉会式司会とか、食事会のセッティングとかをしていた。・・・あまり書きたくはないが、この優勝以来、我が富士高校は、東京都の暁星高校にずっと優勝を阻まれてきた。ワタシのパソコンは「ぎょうせい」と変換すると暁星と出てくる。かるた指導を離れて、公民科教員としての「ぎょうせい」も使うことが普通にある。その時も“暁星”と自動変換してくれるので何度もパソコンを壊した(少しデフォルメ)。・・・・


2008年度、理数科の3年担任となる。さて、この理数科担任。入学式の時に「目標は全員で卒業することです」と宣言した。これが現実である。理数科って優秀な人材も集まるが、悩み抱えて登校さえできなくなる子もいる。3年間で一人も退学者がでなかったことですごいホッとしている。この理数科は本当にデキのよい子ども達に囲まれて楽しかった。卒業式の日、「もう僕は担任を持ちたくありません。こんないいクラスは2度とないでしょう。このクラスを最後にしていい思い出だけを残したい」と言ってしまった。
この時は相当なリップサービスのつもりだったが、本当にこれが最後の担任となった。まだ、45歳だよ。


2009年度、この年、本気で我が侭を言って、3年副担任となる。「3年間、理数科担任をして疲れ果てたので、1回は休みにして」と訴えたのだった。
ところがだ、3年副担任で楽をしていると、10月の終わり頃に校長室に呼び出される。ある3年担任の先生がご懐妊し少し体調が気になるので、3月の卒業式まで君がそのクラスの担任をして欲しい。とのことだった。ちょっとまて、11月から3月って3年生の一番重要な時じゃん。
「君がウンと言わないと、次の人事が進まないよ・・・・」の4回目

そこから慌てて「緊急クラス保護者会」なるものを招集し、ワタシが担任業務を引き受けることを宣言する。人生でもっとも焦った4ヶ月だった。


2010年度、この年の人事でに、ワタシの教員人生のすべてに関わってきた嶋先生が富士高校を離れることになった。当時進路課長であった嶋先生が転勤(ある事情による人事だったので我々は予想できなかった)するので、校内の主要人事に大きな穴があくことになった。
お待ちかね、「君がウンと言わないと、次の人事が進まないよ・・・・」の5回目。
1年の学年主任をやれ、との厳命が下る。


こうして、「Tommyセンセの楽しい楽しい学年主任生活」が幕を開けるのだが、これは次回のお楽しみに・・・・・なんとなくNHKの連ドラみたいな展開だ。














Received — 2024年4月11日 tommy先生の「世相を斬る」

還暦老人ブログ中断顛末(2)

著者: tommyjhon
2024年4月11日 06:20
全国の毒舌ファンの皆様 おはようございます。Tommyセンセです。

 ということで、昨日再任用ハーフ教員としての初授業。めちゃめちゃ緊張した。今日もそんな感じで2時間をこなさなければいけない。ただし、役職がなく単純に授業だけという稼業はかなり楽ちんだ。今、授業以外の雑務で苦しんでいる先生方、はやく再任用ハーフになりなさい!!!!!


 さてっと、好評連載中の「還暦老人日記」の続き。


 30代後半~定年まで、ずっとブログ生活を続けてきたのだが、
還暦老人のブログ中断顛末(その1)そしてお土産。 : tommy先生の「世相を斬る」 (exblog.jp)

前回の最後の方で紹介したように、
2010年9月~2013年9月まで、ワタシはブログを中断していた。もう10年も経ったことなので、初めてその顛末を記すことにする。


 それはワタシの家族、中でも次男のことである。
我が家の次男は、長男と違い勉強大嫌いなガキとしてすくすく育った。スポーツ好きで運動能力も高く、長男がはじめていたバドミントンでも、ちょこちょこっと練習しただけなのに県大会で入賞してしまうような小器用な子どもだった。ただし、青年として成長していくにつれて父親の遺伝子の影響をうけて基礎的な身体能力(走る、跳ぶ、等の筋肉量)に欠けるていることが露呈し、選手としては苦しむことになるのだが、年少期はそれが目立たず、抜群の球技センスだけが光っていた。
 特に野球センスは抜群に秀でていた。例えば、小学3年生か4年生の頃、少年野球でショートを守っていたある時、誰にも指示されるわけでもなく、試合中に、年下のセカンド(2塁手)に細かく指示を出していた。後で何を指示したのか聞いてみると、次男坊は「少年野球の2塁ベースの前には、足で土をならすようなふりをして、沢山の砂を集めておくんだよ、そうすれば、盗塁された時やスライディングされた時に、その沢山の砂に邪魔されてランナーの足がベースに届いていない時があるんだ。その時にタッチすればアウトになるから、セカンド(2塁手)は、時々、足で砂を集めておくんだよ」と後輩に教えていたらしい。
 この野球センスは親としてもビックリだ。こういう性格の悪さは、完全に父親譲りである。


 少年野球で少し自信のついた親子は、勇気を出して中学時代の彼(次男坊)を、富士川河川敷を本拠地とするリトルシニアのチームに預けることを決意する。リトルシニアとは中学生時代にもかかわらずに硬式野球を行う中体連とは違う独立リーグのことである。


 高校の運動部業界では、「所詮、中体連」という言葉が存在していて、本気に高校の部活動を強くしようとするならば、中学校単位で練習をしている中学の部活などを当てにしてはいけない。小学校から中学校の時代には、「クラブチーム」で活動を続けている選手でなければ使いものにならないのだ。今では、卓球やバレーボールなども、「所詮、中体連」となっているらしい。前任校の伊豆中央高校の男子バレーボール部は、中学生の地元クラブチームといつも練習試合をしている。なかなか勝てないそうだ。その伊豆地方の中学クラブバレーボールチームの有力選手は、浜松にある聖霊なんとかという学校に進学していく。
日本人でも世界的に活躍するようになったサッカーや野球などは、いち早く、この中学クラブで育成するシステムを導入していて、さきほどの「所詮、中体連」という言葉は、前々任校の清水東サッカー部で初めて聞いた言葉である。例えば、「中体連県大会出場、レギュラーFW」などという言葉はすでに「それほど上手くない選手の典型」となっている。


 野球でのリトルシニアは硬式ボールで行うのでそれだけでも上手くなるが、大会を競い合うのが「関東連盟」であるから、相手も神奈川や東京などの強豪チームである。相手がそれだけ強いので、指導者も選手も父兄も異常に熱心である。ほとんどすべての親が「甲子園に出場出来るチームに入る」ことを希望してリトルシニアに入団させている。我が次男坊と同級生には、今パドレスの松井裕樹がおり、リトルシニア時代(横浜緑東)から知られていた。


 このリトルシニア時代、息子は、キャプテンキャチャー4番として試合にでていた。関東大会で少し活躍したこともあり、強豪校から声がかかるようにはなった。彼らリトルシニア(今ではボーイズリーグという連盟も存在している。下のリンク先は、静岡のアマチュア野球界を熱心に発信しているサイト。管理者さんとは知り合いになった。)静岡野球スカウティングレポート (cocolog-shizuoka.com) の選手達は5月~6月の試合が終わると真剣に進学先を探すことになるのだ。


 さて、ワタシとしてはかなり悩むことになる。家族でもたびたび、進路(どこの高校に進学するか?)に関しては考えた。多くの中学生は2月~3月の高校入試で進路が決まるが、中学スポーツで活躍した選手は6月~8月にすでに決まっているのである。そして、とにもかくにも、彼が選手として使えるかどうか?高校野球で通用するかどうかを知りたいと思い、監督との面談で「いろいろな高校からの評価を聞きたい」と話した。
 「ならば、少し声をかけてみよう」と答えてくれて、関東地区の某野球の私立強豪校に声をかけてくれた。ワタシ達家族としては、県内の近隣校ならば毎回応援にいけるし、それほど心配も無い。しかし、親が両方とも高校の教員という立場なので近くの高校に子どもがいるとなるとそれなりに気を遣う。監督さんには、県外の私立でもいいです、とは言っておいてあった。


 中学野球の監督の大きな仕事一つは、高校野球の監督さんとのルートを太くしておくことである。「甲子園に行かせたい」と思う欲深い親達の要望に答えきれなければ中学野球の監督にはなれない。もちろん、相手となる高校野球側も同じことだ。ここには、文科省が司る学校教育や静岡県教育委員会が仕切る高校教育とは、別の力学が存在する(サッカーだって同じ)。我がリトルシニアの監督は、かなりの名監督であって、高校との繋がりも太かった。監督は約束通りのことをしてくれて、リトルシニア3年の夏、ある日には、息子の練習(つまり能力資質)を見に来てくれるとのことだった。 


 しかし、その日、約束してくれた某強豪校の監督は現れなかった。(息子には教えていない)ワタシ達夫婦と監督は不思議だと話し、夫婦は、さらに不安になった。
数日後、原因が判明した。それは、常識では考えられない出来事だった。そして、こういう(様々な面で)世界が、世の中には存在するのだということを、(世間知らずの)ワタシは痛感するのだった。


 その事情とは、次のような状況であった。その某強豪校の監督に、匿名の電話がかかってきたという。その匿名電話の主は、「〇〇君の親は、県下でも有名なモンスターペアレントで、あることないことをネット上に書き込みしている親で、世間から目をつけられている。こんな親を持つ子どもを入学させない方がいい」と言ったという。そして、このような電話が、一つの高校だけではないことも監督さんのリサーチで判明した。
 この事実は、息子が某高校へ入学後、またもや証明されることになる。ワタシの勤務校のとある体育教師の先輩先生が、こっそりと明かしてくれた。「先生(ワタシのこと)、実は某高校の監督から親(ワタシののこと)の様子を教えてくれ、という電話がかかってきたよ」「もちろん、そんなこと(モンスターペアレント)は絶対にないと言っておいたけど」



 そして、リトルシニアを率いる監督さんとじっくり話し込み、今後、どうなるか見当がつかないのでまずは証拠となるブログを辞めよう、という結論となり、息子が高校野球を辞めるまでの3年間はブログを中断するという約束をした。だから、ブログの中断が9月なのである。
この匿名電話の主は、いまだにわからない。ただ、野球業界(特に父兄の間で)で、よく噂されていた2ちゃんねる(古い世代は知っている)風の、誹謗中傷、事実無根の噂話が荒れ狂う業界であることが、本当によくわかった。
 確かにワタシはある意味でモンスターペアレントではあるが、それはペアレントとしてではなく、国民としてである。政治の世界に文句をいうことはするが、アマチュア野球界を悪く言ったことはない。百人一首かるた競技の世界は、よく書き残していたが、(素人である)野球業界の話はブログ上していない。


 この匿名電話の主は、何が目的だったのでしょう? 子どもの進路を阻むことなのでしょうか、それとも、ワタシを黙らせることなのでしょうか?その匿名電話の内容からすると、ワタシの極々身近にいる方だと思われますが、態度や素振りで見破ることはとうとう出来ませんでした。なんともおそろしい世界に知らず知らずに入っていってしまった。


 なので、ワタシのブログが再開されるのは、子どもが高校3年生となり、夏の県大会で負けて甲子園の道がなくなってからなのです。だから、2013年8月。
実は、この「高校球児の親」として過ごした3年間は、高校野球父兄として、他の業界では到底味わうことのない喜怒哀楽を経験したのではありますが、それらはどこにも書くことができませんでした。


 前回、富士高時代の職歴を詳しく話しましたが、この甲子園を目指している息子が高校3年生となる年は、どうしても8月を空けておきたかったのです。その為には、全国高等学校文化連盟小倉百人一首専門部事務局長を辞する必要がある、その為には百人一首部顧問を辞する必要がある、その為には富士高を去る必要がある、との結論になるのでした。ちょうどその時は、富士高最後の要職、学年主任としての仕事も大団円を迎える時でもありました。


次は、富士高時代の担任&学年主任としての話になります。
Received — 2024年4月10日 tommy先生の「世相を斬る」

還暦老人のブログ中断顛末(その1)そしてお土産。

著者: tommyjhon
2024年4月10日 05:42
全国の毒舌ファンの皆様 おはようございます。Tommyセンセです。

 ということで、本日から新天地での初授業。富士高、清水東、伊豆中央と進学中心高校から移ってのちょっと毛色の違う高校での初めての授業なので少し緊張している。とはいっても、最初の授業だから授業という授業をする気にもならず、昨日はかなり時間をかけてパワポのスライドを作った。「若者よ、もっとSNSを使おう」というテーマで自己紹介をする予定だ。


 では、好評連載企画「還暦老人の人生を語る」は、いよいよブログ開設とブログ中断の顛末に関して。
ちなみに、前段のSNSに関してはFacebook日本版のスタートが2008年、Twitterの大流行が2010年(開設は2006年)らしいので、それよりも以前の話になる。HPビルダーでコツコツと日記や学校情報を発信していたワタシは2006年に、もっと簡単で軽く情報発信ができる、「ブログ」への移行をそそのかされた。2006年の8月、青森県でのことである。そそのかしたのは、神奈川県のかるた競技関係者である永吉先生というお方、単純に「外山先生のスタイルならば、ブログの方が効率的だよ」という建設的なアドバイスであって、永吉先生から悪の道に誘われたわけではない。
2005.8.3開設 : tommy先生の「世相を斬る」 (exblog.jp)

↓が、エキサイトブログ初の記事らしい記事。
青森点描 : tommy先生の「世相を斬る」 (exblog.jp)



 なぜ、青森なのか? 当時、ワタシは「全国高等学校文化連盟小倉百人一首専門部事務局長」という仕事をしていた。この仕事、6月~8月にかけては殺人的に忙しく、今から考えると、よく体を壊すことなく出来たと我ながら感心する。
全国高等学校総合文化祭開催実績及び予定 | 文化庁 (bunka.go.jp)

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これが、ワタシが関わった、全国高等学校総合文化祭の過去記録。
初めて、“小倉百人一首競技かるた部門”が開催されたのが、第17回大会の埼玉県(平成5年8月4日〜8月8日)、静岡県での開催が平成12年、8月5日〜8月9日。静岡での通称が、「2000高総文」だったので、2000年が平成12年となるのだ。

そして、平成14年(2002年)の神奈川大会を区切りとして、それまで事務局長をしていた阿久津先生という方が事務局長を勇退することになり、それまで阿久津先生に文句ばかり言ってきた静岡県に次の事務局長が任されることになった。
もう数回前の記事でカミングアウトしてのとおり、ワタシはADHD系の人間なので、じっとしていることが大の苦手なので、(事務的な能力がそれほど高くないと自覚しているにもかかわらず)なんとなく引き受けるような雰囲気になってしまった。
それから富士高校を去る平成24年度(2012年)まで、ずっとこの仕事を続けることになる。


 あのね、普通の進学高で理数科(特進コース気味の特別クラス)の担任をし、その後、学年主任をし、その間ずっと(運動部みたいな)百人一首部の顧問をし続けた期間、ずっと全国の事務局長だったのですよ。凄い働きぶりですよね。ここは長い教員人生の中で一番仕事が充実させられた時だった。(ワタシはいつでも好きで、やりたくてなったわけではない)、(愛する)母校富士高校を転勤した理由の一つは、この殺人的忙しさから逃げたいという思いだ。平成25年度の夏は絶対にもっと忙しくなることがわかっていた。(後で種明かし)


 これだけ重要な仕事をやりきると、一般的には出世する。事実、ワタシは(静岡県の中堅有望教員が選ばれて招集される)マネジメント研修なる事業にも呼ばれたことがある。しかし、出世に通ずる道(出世街道)に乗るこはなかった。その理由の一つが、これだ。このSNSにどっぷり浸かり続けたワタシは、普通の人(普通の教員)よりも、ホントに充実した日々を過ごしてきた。特に、政治的な見聞はSNSがなければ実現しなかった。しかし、その分、かなり県教委からのお叱りをもらった。


 読者の中には、この顛末を楽しみにしているかたが多いと思われる。しかし改めて振り返ると、何が原因でお叱りをうけたのかどうしても全部を思い出さない。お叱りを受けた頻度は、2~3年に1回くらいだと思う。なぜ、このように考えるかといえば、HP運営をはじめブログに移行しながら続けた24年間で、ほぼ全部の校長先生から説諭(厳重注意のうえ自粛を諭されること)をうけた記憶があるからだ。だいたい校長は2~3年に一度のペースで入れ替わる。
初めてのお叱りは、ある年の富士宮市長選挙で、露骨にある候補者を応援したことである。この方は高校時代の1年先輩で(当時は)若手の青年実業家(当時38歳)だった。この露骨な応援は、“若くても勇気を出してチャレンジする青年”を紹介したくて記事にしたのだが、当然の如く、対立陣営側から抗議がきた。その時は、HP上だったので、校長先生から、「HP上でも謝罪文を出せ」といわれ、謝罪の文章を書いた記憶がある。しかし、その謝罪文を書いたと同時に、HPの壁紙(この表現は今の世代ではわからないだろう)を反省ザルにしたので、また怒られた。


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(写真は、当時流行った反省ザル。「反省だけならサルでもできる」の語源となったジロー君)
その後も、政治的な件では相当やられた。ブログによく登場していた、長尾たかし(当時、大阪14区民主党候補者)氏に関する文章でも叱られた記憶がある。その時は、いくら衆議院選挙真っ最中でも選挙区が違う(ワタシは静岡5区、長尾氏は大阪)ならば、応援はOKだと勘違いしていたが、法律によると選挙区が離れていても選挙期間中は応援活動を教員がしてはいけないそうだ。このことも、HPを運営していて初めて判った事実である。
 そして、校長先生からのお叱りではなく、直接、静岡県教育委員会に召喚され半日にわたって御説教を受けたこともあった。これが巷で一番有名な敬愛する〇〇先生転勤事件なのだが、この事件は、プライバシーとその人物の尊厳に関わることなので、少し色合いが違う。でも、ここではまだ書けない(まだ、現役で活躍しておられるから)。



 ところがだ、このブログが、2010年9月に、どうしても更新無期限延期にならざるをえない状況になってしまう。
無期限更新延期 : tommy先生の「世相を斬る」 (exblog.jp)

この無期限延期は、2011年になっても続け、
今年も我慢します : tommy先生の「世相を斬る」 (exblog.jp)

2013年もブログ更新せず、
2013・年頭所感 : tommy先生の「世相を斬る」 (exblog.jp)

とうとう、3年間、ブログ人生を中断することになる。


 このやむを得ない中断は、政治的な活動でもなければ、プライバシーの侵害でもなければ、犯罪に関することでもなかったのだ。(教員は続けているので、犯罪でははいのは当たり前だけれど)
次回をお楽しみに・・・・・・・


そして面白いお土産動画を一つ。
ワタシが敬愛する歌手(声楽家)、倉藤理大さんの「せをはやみ」 かるた関係者必見。
Received — 2024年4月7日 tommy先生の「世相を斬る」

還暦老人が超政治的先生になる

著者: tommyjhon
2024年4月7日 04:55
 全国の毒舌ファンの皆さま、おはようございます。Tommyセンセです。

 ということで前回内容の続き。
ワタシが富士高に赴任したのが2001年。ネット稼業を始めたのもその年。そして、政治の世界に誘われた長尾たかし氏との出会いが2002年。
長尾たかし氏のウィッキを見ながらうろ覚えであったのを検証しながら書いている。
長尾たかし氏が、勤務先の大手生保を辞めて民主党大阪14区の支部長(つまり、大阪14区で立候補するということ)就任を、山梨県大泉村の加藤幸弘氏の別荘で宣言したのが2002年の8月。


 この長尾氏のHPや加藤幸弘氏の書き込みが、超政治的政治経済教員となるきっかけである。
そうして、HPを運営しながら、現実の政治をマスコミなどを介在しないナマの形で垣間見ることになった。


 そう言えば今、高等学校(高校)の学習でおいての大きなテーマが、「主体的学習」である。昨日、新赴任校の清水西高校でも入学式があったが、校長祝辞の中にも一番最初のテーマとして、主体的学習という言葉がでてきた。しかし、主体的に学ぶってことが高校生にどれくらい伝わるか?これにはかなり疑問が残る。ワタシは、主体的というのを副島隆彦先生の著作から学んだ。それをポジティズムという。ポジティズムを調べると、以下のようによくわからない単語が並んでいる。
実証主義(じっしょうしゅぎ)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)

これを副島先生は、「自分の目で見て、耳で聞いて、足を運んで学んだこと以外を信用しない」と定義しておられる。このポジティズムな学習を、ワタシは政治家になるという長尾たかし氏の元で体験することができた。


 そうしているうちに、もっと凄いことになる。
長尾たかし氏から突然のお誘いがあった。2006年の夏休みのことである。
長尾氏は当時、一新会入りをしていた。いわゆる小沢グループ(もちろん小沢一郎先生)である。
小沢グループ - Wikipedia

ここに以下のような記載がある。
<貼り付け>
2003年(平成15年)の民由合併によって解散した旧自由党出身の議員を指していた。当初は政党内政党は避けようという観点からほとんど会合なども行われなかった。その後、2004年(平成16年)6月に当時当選1回〜2回の議員を対象とした小沢主宰の勉強会一新会(いっしんかい)が発足し、これ以降徐々に会合等を開くようになる。この一新会に加え、2005年(平成17年)秋、第44回衆議院議員総選挙の惨敗により、新たに発足した落選者や候補者を対象とした一新会倶楽部(いっしんかいくらぶ)が発足した。2006年(平成18年)に小沢が党代表に就任し、候補者擁立に采配を振るったこともあり、2007年(平成19年)の第21回参議院議員通常選挙、2009年(平成21年)の第45回衆議院議員総選挙でそれぞれ民主党が大勝すると、当選した新人議員の多くが加入し、党内最大派閥となった。

<貼り付け終わり>


「この一新会の第2回全国研修会が、箱根のとある宿泊研修施設で8月の末に行われるから、外山先生も参加しないか!」との電話がかかってきたのだ。もちろん、大兄加藤幸弘氏も参加するという。
ワタシは行かない手はない、と思った。全国から政治家と政治家の卵さんがさんかする現場に立ち会える!!!!!! こんな美味しい教材は他にない。超政治的教員は、このように現場で教えられるのだ。


 こうして、のこのこと民主党(当時)の大リーダー、小沢一郎率いる勉強会(いわゆる派閥の前段階)に参加した。残念ながらワタシは途中からの参加で、主催の小沢一郎先生は会場にいらっしゃることはなかったが、この第2回一新会全国研修会を、詳しくブログでレポートしてくださる方がいた。
この方は、もうブログを更新していないようだが、2006年のこの記事はかろうじて残っていた。
 ・政治家研修会のレポート4 - 駒ヶ根に想う (hatenablog.com)
連絡もとれないので無断でコピッペする。


<コピッペ>
こうして、各ブロックごとに創出されたキャッチコピー、吟味された公約、
かなり次元は低いが頑張ってお絵かきしたポスターが揃いました。
翌日、これらを持ち寄って選考会が開かれました。
プレゼンテーションの後に全体投票があって、当選したブロックの代表は「総理」になる仕組みです。


ゲームとしては、かなり凝った趣向です。
総理の座を目指して、賢明なプレゼンテーションが行われます_と言いたい所ですが、
そこは政治家の面々ですから、登壇したら自己PRが最優先します。


持ち時間の冒頭は、押し並べてブロックに参加している代議士の紹介です。
中には、差し迫った自分の選挙応援を乞う姿もありました。
これが常識なのだろうとすんなり理解できてしまうほどに、政治家と庶民感覚の違いに慣れてしまいました。


しかし、中に一人だけ異色の代表がいました。
持ち時間の後半を、「余計なことですが」と前置きして、


政治を目指す皆さん、政治を支えようとする皆さん、もっと勉強してください


思わず、私は拍手してしまいました。
私と同行した2人も合わせて、約600人の参加者のうち3人の拍手が際立っていました。


この方は、会場近在の高校の政経担当の先生です。
研修会のありようを見て、思わず苦言を呈したくなってしまったのです。
これを聞いた代議士たちは、かなりご立腹のようでしたが、
個人的なキャラクターが優れていたことが手伝って、なんと優勝してしまったのです。
キャッチと公約に見るべきものはありませんでしたが、ポスターのアイデアは視点が優れていたと思います。


しかし、個々のパーツの成績からすると、上回る作品もあったので、
優勝の勝因はプレゼン能力の高さだったと思います。
話の内容もさることながら、聴衆を生徒に見立てて自分の世界へ引き込んだ時点で勝ちが見えていました。
演説は、内容よりも話術であることを強く印象付けられました。
もちろん、主張の本質も評価されるべきですが、本論の公約で劣っていても演説で十分に逆転できる、
それどころか、ダントツの優勝を勝ち得ることが出来た事は、郵政民営化選挙の小泉さんを彷彿させます。
<コピッペ終わり、太字拡大はワタシ>



ほらね。この記事にある、「政治を目指す皆さん、政治を支えようとする皆さん、もっと勉強してください」
と、壇上で演説したのは、ワタシです。ですから、

この方は、会場近在の高校の政経担当の先生です。

も、ワタシのことです。



 何かウケを狙ってこのような発言をしたわけではありません。元々登壇してプレゼンするつもりなど全く無かったのですが、グループ内で異色の「先生」という立場であり、長尾氏も加藤氏も、そろって推薦してくれたので、少し本音をぶつけて言っただけです。
 当時、民主党は、ようやく野党第一党にふさわしく、政権交代を視野にいれて活動し始めました。その政権をとる準備としての研修会であると認識していたのですが、そこに集まっておられた議員さん(代議士)達、そして支援者・後援者達の考え方が、どうしても幼稚じみているように思えたからです。
 実際に政権をとったあと、対決するのは自民党の政治家ではありません。対決するのは「既得権益に固まって現状を変えようとしない国家官僚」達です。特に、財務官僚を納得させなければ改革はできない。日頃の国内政治を観察していればこれくらいのことはすぐにわかる。でも、そこに集まった民主党の方々、特にスピーチの為に登壇した若手政治家さんたちは、選挙のことばかりを訴えているだけでした。それでは、国家官僚たにち敵わない。


 ワタシは、富士高校の政治経済の先生です(当時)富士高校というのは人口30万くらいの地域を地盤としたトップ校です。そのトップ校の中でも東大(特に文系)合格者をだすのは至難の業です。毎年5人の東大合格者を出し続ければ「超進学高」の称号をもらえます。その超トップ層の超トップランクの頭脳が、国家公務員1種試験(いわゆるキャリア)に合格し、その中の超々トップクラスが財務官僚となるのです。彼らは、頭脳の構造が違うのです。民主党が今後政権をとっても、改革は政権奪取よりも難しいのです。だって、相手は、自民党のぶくぶく金満体質の2世お坊ちゃんではなく、財務官僚達なのですから・・・・・
 このように(学校で教えるという)現場で習ってきたワタシは、この思いを研修会で叫んだのです。それが、
「政治を目指す皆さん、政治を支えようとする皆さん、もっと勉強してください」

という、発言だったのです。


 そして、このブログを偶然に、現職の富士市議会議員の先輩(富士高の)が発見してくれました。
 ニュース! 富士高教員が一新会全国研修会で優勝。 | 富士市議会議員 鈴木幸司オフィシャルブログ Powered by Ameba (ameblo.jp)
この鈴木浩司市議会議員のブログの2006年9月版に残っていました。


<貼り付け>
インターネット上の情報をたどって調べていくと
この近在の高校というのは「静岡県立富士高等学校」であることが判明。

居並ぶ政治家、立候補予定者といった悪党どもを見据えて、

「もっと勉強しろ!」とは痛快ではないか。



富士にも隠れた人材はいるものだ。
本人のお許しがあれば、いずれお名前も紹介したい


<貼り付け終わり>


こうして、富士市の活動家に正体がばれることになり、ワタシはこの鈴木幸司が関係していた。豪集会に誘われることになる。
細野豪志 - Wikipedia

豪集会とは正式な政治団体ではなく、衆議院議員細野豪志氏を応援する勝手連(かってれん)のようなものである。(ただし、今の自民党に見られるようなおらが寝集めの団体では絶対無い)
細野氏は、発当選当時、「パラシューター」というニックネームがつけられていた。パラシューターとは落下傘のことで地盤も看板も算盤(2世議員や3世議員のはこの3つがお膳立てされている)おない静岡県東部地区にいわゆる落下傘候補として舞い降り、初当選以来ずっと勝ち続けている。


 この勝手連である豪集会のある日の会合(正確には、会合後の宴会、もちろん割り勘だった、あしからず)に誘われた。
誘ったのは、ワタシの小学校・中学校・高校の同級生である伊藤君である。ワタシをブログに書いてくれた鈴木幸司氏も来るという。そして、その場に言ってみると、ますますびっくり、この会合の席には、小学校・中学校・高校の同級生がぞろぞろいる!!!!!!!
 この同級生達は、ほとんどが自営業者でした。富士市の活性化を目指し、現状の地域社会に憂い、少しでも地元の発展につねげようと、代議士細野豪志氏の下に集まっていたのです。これで気をよくしたワタシは、細野氏の勝手連・豪集会の集まりにずうずうしく参加していくのです。


 ただし、現在は知っての通り、細野豪志氏が自民党に鞍替えして衆議院議員をなされているので、どんどん疎遠になっております。実は、長尾たかし氏も自民党に鞍替えされております。
民主党だから応援していたワタシは、自民党に鞍替えした議員を手のひらを返すように応援することは出来ません。これが、政治経済を教える教員としての限界であり、信念です。


 ワタシが生徒に伝えるべきは、「どの政治家を応援するか」という政治活動(選挙活動)ではなく、政治思想です。アリストテレスやプラトンからばじまる。政治哲学です。この確固たる政治哲学を簡単に手放すことはできない。
彼ら(政治家)にとっては、まさしく当選することが死活問題ですし、地域の要望や支援に答えるためには、所属政党を変えてまでの生き残りが必要だったかもしれません。しかし、ワタシは、先生だったのです。自分が勉強してきた理論を捨てることはできません。「青臭いね」と言われても、小沢一郎先生をずっと信じ続けています。勉強して勉強して行きついた先が「国民の生活が第一」であり、今でも、鳩山政権の無念(対米自立を阻まれたこと)を忘れられません。国民を裏切り、日本経済を狂わせたプラザ合意も、日米構造協議も否定します。対米隷属を繰り返す、自民党の政治姿勢をゆるすわけには行きません。


 こうして、ワタシの(ネットによる)言論活動が続いていくのです。でもね、超政治的教員が政治的なブログ(活動当初は個人HP)を続けるって、相当大変なのですよ。「HPは更新が命」とおっしゃった先輩先生方は、どんどんこのITツールを手放していきました。ブログの件では、何遍も校長室に呼ばれてお叱りをうけましたが、一番の理由は政治的発言でした。(他にもあるけれどね)


 次回は、このブログ中断の事件について話します。 














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