2011.3.11から10年
2021年3月10日 06:08
全国の毒舌ファンの皆様 おはようございます。Tommyセンセです。
ということで、どこのメディアでも、震災からの10年を特集している。
まさに、日本を変えた2011.3.11だった。
少し、思い出話を。
我が家では、2011年にちょうど受験期を迎えていた。長男が大学受験、弟が高校受験である。次男の方は、それほど影響がなかったが、次男の友達の中には、静岡を離れて高校に行く奴が数人(いわゆる●●留学)いて、そこの合宿所が被害にあってかなり不便をしていたと聞いた。もっと、危なかったのは長男の方で、国公立大学後期試験を控えて某大学の下見をしていたまさにその大学構内で被災した。自分が揺れを感じる前に、大学のビル群から一気に人が溢れ出して、むしろその人間の形相に驚いたという。長男はなんと6時間かけて宿泊先のホテルに戻り、朝、4時間かけて、もう一度後期試験の大学に向かった。そして、正門に「後期試験は中止です。合否はセンター試験の成績のみで決定します」との張り紙。結果的に不合格になって長男殿は私立大学に進学していった。その長男殿も昨年結婚し、もうすぐパパになる(ワタシは正真正銘のジジィとしてデビューする)。それが10年という歳月なんだろう。
ワタシは、当時某県立富士高校で1年の学年主任をしていた。某F高校では、2年生の7月になると、高原教室という某F高生にとっての最大のイベントがある。この高原教室というのが修学旅行であって、第一次登山ブームが起きていた今から60年前くらいにスタートした(苦行と感動が入り交じった)高校独自の行事である。なんと、山小屋にも宿泊するのだ。某F高生は(教員も)、奥日光の山々を登り、尾瀬を縦走して、心身ともに鍛えられるのだ。尾瀬の縦走が晴天に恵まれると、20㎞の行軍の後に一面のニッコウキスゲのお花畑が見られる天国体験になるし、雨天に見舞われると、稲妻が横切る豪雨の中で山小屋を目指す彷徨を味わえる。(教員としてどちらも経験した。氷のように冷たい雨の中を歩いた時には、生徒に内緒でワンカップ大関をお土産物屋で買って一気に飲み干したこともある)、転勤して今の高校に移った時には、ちょっとだけ「高原教室ロス」の気分になって、せっかく、修学旅行の行き先ががオーストラリア・シドニーだったのに、それほど感動しなかった。
さて、その高原教室が出来そうにない。なにせ、私たちが行こうとしている、奥日光やトレッキングをしようとしている尾瀬の大湿原付近は、ご存じのように東京電力の管轄で、大災害にあった東京電力界隈は、避難者の一時的な宿泊場所として提供されていた。その地で高原教室を強行するわけにはいかない。
学校内では、アーバン(都会)派の“反高原教室”的態度を露骨に表す(特に生徒の安全にばりかり気を遣う管理職)先生も多く、どうしても高原教室を継承したいワタシにとっては、相当邪魔な存在だった。学年主任のワタシが、上手に対案をださなければ、あの時点で、高原教室は終了していただろう。
そこで、2011年3.11の直後に高原教室担当の旅行社を呼び、代替案の検討に入った。この仕事は、おおやけになると反対派(教員・生徒保護者など)に一気に潰されそうだったので、管理職にも黙ってたった一人で検討していった。
その時の条件は、①尾瀬や奥日光と同等な達成感と感動を得られること、②“京都奈良派”を納得させるような論理があること、③そして、つぎの年からは奥日光尾瀬ルートに戻そうという機運が生まれること。の3つである。
そこで、某F高校のお隣の進学校である沼津東高校が長年実施している実績がある、志賀高原4泊5日のコースを選び、3月末の職員会議で提案した。(その時は、担当旅行社JTBのお陰で、宿泊先のホテルも登山ルートもすべて計画済みだった。)先生方も、「沼津東高校のルートだったら大丈夫だろう」ということで、それほどの反対も出なかった(内心、ドキドキ)。また、その登山行程を見たある先生は、「尾瀬よりも、ライトでマイルドな高原教室になりそうだね」とも言ってくれた。ワタシは、ことあるごとに、この「ライトでマイルドな高原教室」のキャッチコピーを使って、生徒や保護者の方々にコマーシャルしていた。
ところが、ライトでマイルドと言うキャッチコピーとは裏腹に、本当はヘビーでハードな苦行ともいえるコースだったのである。志賀高原は、もちろんスキーの聖地であってワタシもウインターシーズンは何回も行っている。しかし、その時はすべてゴンドラとリフトで標高2000㍍まで運んでくれる。しかし7月の志賀高原は、自分の足で登らなければならない。スキーの聖地である理由の一つが、ゲレンデを整備するに適当な山々がいくつも連なっているからである。そこを縦走するとなると、日本有数のゲレンデのアップダウンを何回も繰り返すことになるのだ。
しかも、7月のクソ暑い時期に。
4日間の行程は、A隊B隊で少しずれるが、
1日目、移動と志賀高原の湿原トレッキング。(ここで捻挫してその後をずっとホテル待機した、体育の有名な先生がいた)
2日目、横手山から草津白根山。ここは、尾瀬にも負けない感動ものの、コマクサ群生地だ。
志賀山&大沼がここ。
そして、
「ライトでマイルドな尾瀬」の象徴として使わせてもらった写真。
4日目、クラス別研修。(要するに一日みんなで遊びましょう、という日)
ワタシは、理数科1組に混ぜてもらって、長野のネイチャーコースを満喫した。
その1、千曲川ラフィティング。
その2、斑尾高原ジップライン。
5日目(この日が帰着の日)、つまり、例年では日光東照宮に行くのが、松本城に変わった。
と、山登りはハードでヘビーだったものの、高校生の修学旅行先としては、120点満点の
「たった1年だけの、高原教室」
を完成させた。
ちなみに、たった1年だけで、特別で、特異な、場所と行程だったので、普通の修学旅行では考えられない、バカみたいな企画も実行した。
①夜も深まって就寝時間を迎えようとしていた頃に、ホテルの館内放送で生徒をたたき起こして、バス8台で、ゲンジボタルを見に行った。
② 志賀高原の98会館(長野冬季五輪の表彰式施設)を貸し切っての大閉校式。(要するに、舞台での芸やダンスのらんちき騒ぎ)
もちろん、高原教室では恒例のキャンプファイヤーもやりました。バトンの先に松明(たいまつ)をつけてグルグル回す芸もやりましたよ。
しかも、この大閉校式の終了は、25:00!!!!! なんと生徒教員みんなで、夜中の1時まで騒ぎ続けたのでした。
・・・・・この高原教室には、当時の教頭先生も同行していたのだけれども、10年間、黙ってくれてどうもありがとうございました。(もう時効だからいいでしょう)
ということで、2011.3.11、日本で被災して犠牲なった方々が2万人、その他、有史以来の大災害、日本を大きく変えた原発事故。
本来ならば、慰霊・追悼のブログを書くべきですが、
ワタシの教員人生、最大の思い出を、暴露話を含めて書いちゃいました。
この某F高の志賀高原世代は、その1年後、史上に残る進学実績をあげることになるのでした。
関係者の皆様、あれから10年を記念してブログに残すことで、深い感謝の意を申し上げます。