還暦老人過去を語る。
2024年3月13日 05:50
全国の毒舌ファンの皆様 おはようございます。Tommyセンセです。
ということで、定年まであと3週間となった日々をコソコソと過ごしている。今年度は3年生しか授業がなかったので、彼らが卒業した今は何も授業がない。したがって、何となく他の教員に悪い気がするので、コソコソと隠れるような日々である。今日は、事務室でいろいろな定年に関する書類を書くことになっている。例えば、退職金の振り込み請求用紙などだ。退職金とて請求をして指定口座を登録しなければ支払われることはない。
それで、暇に任せて、23歳で静岡大学を卒業してそのまま教員となったあたりから、私の履歴を残しておこうと思う。明日もそうだが、今後“退職を祝う会”みたいなものが各地で開かれる予定である。(勝手に思っているだけで、具体化しているものは何もない。コロナ禍で、そのような催しを開く文化が消滅したことが悔しい。退職を祝う会が開かれるほどの人望がないことも要因の一つではある)
そのいざという時に、会の幹事長が困らないようにこういう媒体に記録してあれば楽だろうと思う。
教員になって2年目の正月、当時過ごしていた静岡県立下田南高校のすぐ近所に住んでいた私は、ある日の朝「学校の国旗掲揚台で半旗を揚げてくれ」と頼まれる。それまで、半旗という言葉さえ知らなかった。これが平成の始まりである。平成元年は1989年のことで、私はそこから逆算して1988年から1990年の3年間、静岡県立下田南高校の定時制の教員として働いていた。
教員採用試験に合格し、先生になると決まっていた私は、「絶対に女子高に勤務してやる!!!!!」と妄想していた。教員採用試験に合格したので、その時点で就活はやめたが、その時代はバブル真っ盛りで、3社~4社ほど内定みたいなものを頂いていた。もしかすると証券会社勤務になっていたかもしれない。「ああ、良かった」。
3月の下旬になり、いよいよ静岡県教育委員会関係者(後から、教頭先生だとわかる)から電話を受け、静岡県伊豆地域の最南端、下田南高校に内定したので面接に来てくれと言われる。なんと、下田南高校は女子高ではないか!!!!!!!!! 人間、念ずれば思いは叶うのである。すぐに友達に電話してリサーチすると、下田南高校は普通科と商業科があり、普通科だけが女子高で商業科は男子生徒もいるとのことだった。「まっ、半分女子高だから満足」と喜びながら、東海道線を熱海駅で乗り換え、東海岸を鉄路で南下して南国の匂いがする下田の街に降り立った。
下田南高校は、下田の街中にあり伊豆急下田駅から徒歩10分程度のところにある。進学校として有名で、且つ豆陽中学として明治12年からの歴史を誇る下田北高校(現、下田高校)は、蓮台寺駅という田舎にあるので、立地的には下田の中心の学校である。そこに星雲の志を抱いて一歩踏み込んだ私は、堂々と校長室に入り、少しばかり世間話をした。そして、「では、職員室に行きましょう」と誘われて向かった先は、今でいう印刷室みたいな北向きで暗くて肌寒い小さな部屋だった。普通、新任の教員が3月中に職員室に誘われることはない。スパイ小説を愛読していた私は、「職員室に行きましょう」と誘われた時点で疑問を感じるべきだったのだ。
その倉庫みたいな部屋が、定時制の職員室だったのである。
ワタシは、下田南高校の定時制の社会科の教師として採用されたのだった。もちろん、1年目は担任ではなかったが、2年目に1年生の担任となり、3年目には3年の担任となった。この当時、日本の若者の最後の急増期で、静岡県にも新設の県立高校がバンバン建てられ、私立大学の偏差値もバンバン上昇していった頃だ。ワタシが担任となった1年生は、(定時制なのに、なんと)41人も新入生がいたのだ。なんと定時制の1クラスが41人(年は41歳の方がお一人で、あとは15歳)というだけで、私の心労を理解してほしい。それからの2年間は、日々の終わりに「今日は何もなかったね」と帰れることだけが楽しみだという生活をしていた。学校での唯一楽しみは、当時、野球部監督をしていたことだけだった。この悪党どさくれ野球団は、(欽ちゃんの番組で有名な)定時制の神宮大会(甲子園)を本気で狙っていた。ただし、選手層が薄く(当たり前だ)、主力がケガをすると一気に弱小球団になってしまい、神宮の夢がかなうことはなかった。もちろん、ワタシは野球経験者ではないし、ノックもできなかった。
学校での楽しみがない代わりに、休日の楽しみはゴロゴロあった。日本一きれいな白砂の砂浜には歩いても行かれるし、当時のスーパースキーブームに乗じて、冬にはスキーばかりやっていた。海にも行けない、スキーもできない休日は、かならずどこかにドライブに行った。我が愛車は、トヨタのスカーレットKP71というスピード狂の入門車みたいな車で、そこそこの改造もしていた。
ドライブや海やスキーに、飽きることなく付き合ってくれたのが今の奥さんである。当初は、ワタシと付き合うというよりは、海やスキーに付き合ってくれる人であったと思う。
今の奥さんには、妹が二人いて、この下田時代に初めてその妹たちに会った(要するに偵察)のだけれど、その妹たちは、お姉さんの彼氏(ワタシのこと)のことを早速実家に報告したらしい。後で聞いたのだが、その報告は、「良かったよ。心配しないでね。チビでデブだけどハゲではないよ」という慰めの言葉だった。
この下田南高校は、今やない。病院とその駐車場に成り代わってしまった。
でも、下田の街並みや風景は、高校がなくなった以外は今でも変わらない。ワタシ達老夫婦は、今でも必ず夏に一度は下田に出かけて行って、24~25歳ころに遊んだビーチに行くことになっている。
次回は、沼津商業時代の話ね。お楽しみに。