ノーマルビュー

Received — 2024年3月14日 tommy先生の「世相を斬る」

還暦老人下田南校からの沼商時代を語る

著者: tommyjhon
2024年3月14日 05:37
全国の毒舌ファンの皆様 おはようございます。Tommyセンセです。

ということで、ヒット数を見る限り“好評につき続編”。


 定時制勤務で始まった教員生活をなんとか全日制勤務に戻そうと定時制生活3年目迎えた。教員は最低3年は同じところで勤務しなければならない掟があるので、その最低年数はここでクリアできる。しかも、当時は大きな味方もいてくれて、彼女(今の奥さん)も、隣の学校で3年目を迎えていた。同時に転勤させてもらわないと結婚できない!!!!!と2人で訴えれば何とかなるだろう。


 そんな3年目に、「人生の師匠」ともいうべき偉大な人物が定時制の教頭として赴任してくる。
 故北山家麿先生だ。名前から察して欲しいが、伊豆半島東海岸のある神社の神主さん(兼職中)である。今、ワタシが勤務している伊豆中央高校から転勤でやってきた。最後の教員生活を伊豆中央高校で迎えるのも何かの縁だなあと感じている。故北山家麿先生には、結婚式の仲人(なこうど、昔は結婚式を挙げる場合は形式的にもお仲人さん夫妻を立てなければならなかった)もやってもらった。この北山センセ、部下の作った書類をほとんど見ない。教員とて官僚の端くれなので、いろいろな報告書の類を、ハンコとともに回して提出しなければならない。今までの教頭先生は、我々若手教員が作成した文書類に細かく目を通してハンコを押したけれど、北山先生は、完全にメクラ判(差別用語として禁止られていますが、文書の芸術性や伝統に配慮して使用を許可します)である。教員生活2,3年の若造が作る書類なんて、ミスが多いのは当たり前なのだけれど、北山先生はほとんど見ない。勇気を出して、「なぜですか」と問うと、
「俺が細かくチェックすると、若い奴が怠けるから、人間が育たないんだ。県教育委員会に謝るのは結局俺(教頭)だから、育てるためには見ない方がいいんだよ」と話してくれた。我々若造教員は、背中がゾクッとなり、背筋が伸びた。結果的に(人生様々なことがあって、教員として管理職にはなれなかったが)この姿勢が晩年のワタシを貫くことになった。教員って信用することが一番の仕事であって、その責任は、信用すると判断した自分にだけなんだ。
ただ、北山先生が書類を見ないのは、毎日が二日酔いだったことが原因かもしれない。


 今は、もう時効なので、話してもいいだろう。お酒が強かったワタシは、定時制勤務後北山先生に誘われることが多かった。同じ社会科の教員でしかも(ワタシも)生意気だから話題に事欠かなかったからだろう。当然、下田駅前で一杯飲むことになり、北山先生は電車に乗って伊東まで帰るのである。その内、幾度かは一緒に終電に同乗する。伊東の行きつけの寿司屋(スナックとかも)に行くのだ。どうせ次の日も午後から勤務なので、全然大丈夫。
 ある日、ある時、故北山先生が、伊東駅から自家用車で家に帰ると言い出した。もちろん、酔っぱらっている。どうやら次の日に自動車を使う予定があるらしい。「飲酒運転だから止めましょう」とワタシは先生を諭した。でも、先生は言うことを聞かない。諦めて先生の車に同乗して帰ることにするが、何と発車した直後から後ろをパトカーがついてくる。同じスピードでずっとついてくる。とうとう家の駐車場まで付いてきた。この場合、飲酒運転の北山先生は捕まるが、ワタシはどうなるのだろう?そんなみみっちいことを考えていたワタシは急に恥ずかしくなった。


 「北山先生ですね。伊東警察の〇〇ですね。●●高校の時にお世話になりました」「先生が事故を起さないように自宅までパトロールしておりました」「では、これで失礼します」と警察官は挨拶して去って行った。北山先生は「おおっ、ありがとさん」とだけ答えた。
そしてワタシは、こういう先生にワタシもなりたいと思ったが、こういう先生は二度と現れず、他の人は絶対にこういう先生になれない。と考え直した。
その後30数年、北山先生を超える管理職に最後まで出会うことはなかった。


 ということで、その3月にお目出度く私たちは2人そろって転勤を果たす。定時制という仕事場以外は楽しかった下田から離れることになった。
転勤先は、彼女(今の奥さん)が、県立富士高校で、ワタシが沼津商業高校だった。
県立富士高校というのは、ワタシの母校である。したがって、ここからちょっとややこしい人生も始まることになる。


 この富士高校という学校が、教員生活に相当な影を落とし、その数倍の光を当ててくれた学校であって、小学校時代にプールで遊び、中学校時代に文化祭に行き、現役高校生活を3年間過ごし、女房(ついに結婚したので)が2度の産休育休を含めて10年間過ごし、その後転勤した私が12年間過ごし、息子の一人が3年間過ごした学校である。
静岡県立富士高等学校 - Wikipedia
ワタシは、富士高校の看板部活である百人一首部の第12代目の部員であった。


 今回は、下田南高校から沼津商業に移る時の話なので、百人一首部(競技かるた)の話を除く。
沼津商業に転勤すると、そこでとんでもない人物と出会うことになる。今日の最後は、この思い出話。


Youtubeに張り付けたのは、あの富士高体操だ。このヴァージョンは、ワタシの親友、倉藤理大先生が編曲をし直して原盤を忠実に再現したものなので、昔、生徒としてテープの伸びきったバージョンで練習した世代には違和感があるかもしれない。ただし、この富士高体操の出だしは、富士高OBOGならば絶対に覚えているだろう。
「創作 斎藤正雄 作曲 望月桑太郎 全員 気を付け・・・・・・・」で始まる 最初の部分である。


 私が転勤した沼津商業に、サイトウマサオという体育の先生がいた。もうすぐ定年を迎えるベテラン先生だが、何となく私に優しくしてくれた。好好爺風の大人物でどの若手教員からも慕われており、宴会の中心人物だった。
転勤当初から、ある疑問を持っていた私は、ある日、そのことを勇気を出して聞いてみた。
 「サイトウマサオ先生って、あのサイトウマサオですか?」


「ああ、そうだよ。富士高体操は俺が作ったんだ。全部」「全部ですか????!!!!!」
「そうだ。若手教員だった俺は、体操作れって先輩に命令されて、全部作った」
「つまりあの、創作サイトウマサオ、作曲望月桑太郎のサイトウマサオですか」
「もちろん、そうだ」


 私が高校1年生から覚えこまされた富士高体操は、てっきり明治か大正時代の制作だと信じ込んでいた。(それくらいダサイ)。だから、斎藤正雄も望月桑太郎も、とうにこの世からいなく、どこかに色あせた肖像画があるだけだと勝手に思い込んでいた。
その斎藤正雄が、現実にその場にいる!!!!!!!
 教員生活でこれほど驚いたことは他にない。
某高校勤務時代某美人女性教員の朝帰りの現場に出くわした時でも、こんなに動揺しなかった。この時見たものは実物だが、サイトウマサオはマボロシだ。


 その後、斎藤正雄先生はご退職されたのだが、10数年後、ワタシが富士高校に転勤してこの情報を新聞部に流すと、堂々と新聞部が取材に出かけて、富士高関係者全員のマボロシを白日の下にさらすことになった。そして、その数年後、富士高富祭体育の部に斎藤正雄先生がサプライズで現れて、富士生が斎藤正雄先生の前で、その富士高体操を披露することになる。斎藤正雄先生は、涙を流されておられた。


今日は、下田南高校時代と沼津商業高校時代に出合った、お二人の傑物に関する話でした。
次回をお楽しみに。
 


















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