還暦老人富士高に転勤する
2024年4月2日 05:08
全国の毒舌ファンの皆さま おはようございます。Tommyセンセです。
ということで、ブログランキングを二桁(ブロガーの世界も厳しいのよ)に押し上げる久々の大ヒット!!!!!
謹んでお詫び申し上げ、ブログを中止いたします。 : tommy先生の「世相を斬る」 (exblog.jp)
たった10分くらいで、安直に作った記事の方が、Gopro撮影から初めて編集・Youtube投稿とほぼ半日を費やした、「離任式動画」(還暦老人、離任式のYoutube動画を投稿する : tommy先生の「世相を斬る」 (exblog.jp))に比べて3倍のヒットを稼ぐというこの日本は、少し間違っているんじゃなかろうか?
さてと、「還暦老人の教員史を振り返るシリーズ」も第4章に突入する。題して“富士高時代”
2001年、我が人生のITメモリリアルの年である。
転勤の顛末から。
2000高総文祭静岡大会を静岡県高校かるた専門部の事務局長としてやり遂げたワタシは、もう長泉高校に仕事はない(部活の顧問はかるたの専門家が引き継いでくれた)と感じたワタシは、転勤を決意する。
というのも、部活の先輩で、長泉高校元顧問で、富士高かるた部の顧問であった、嶋先生がなんとその1年前に筑波大学大学院に派遣されて、富士高校は指導者がいない状態だったのだ。
そして、富士高校に勤務していた女房もその少し前に転勤していた。まあ、タイミングとしてはベストな時期だ。
ワタシは、進路課に配属され1年生の教科「現代社会」を担当することになった。
当時、富士高校の進路課は何かと有名な部署で、ADACHI(アダチ)という進路課長が、静岡県内のみならず全国的にも“熱血的な?高圧的な?強引な?強力な?”進路指導で、ブヒブヒと鼻を鳴らせながら闊歩していた。そのADACHI先生がちょうど退職し、富士高進路課のメンバーもかなり一新されることになった。ちょうど、その時にワタシが転勤したのである。しかし、本格的進学校の進路指導経験はなく、当時はやり始めていた「PCを使ったデータ分析」も出来ず、それほど進路課で重宝されたわけではなかった。もちろん30代半ばの(富士高の教員としては)若手だったので、1年生の担任にもなった。
富士高という高校は、今までに経験したことのない優秀な才能の集まるところで、ワタシが1年担任として担当したクラスには、のちに東大に進学する英才が2人もいた。1年担任として、一番の難関は「クラス役員決め」である。初めて出会った40人のクラスで、クラス委員長や応援委員会2名など、いろいろなクラス役員を決めなっければなならい。これは当時どこの学校でも同じことで、ワタシは長泉高校時代に“世界一公平な決め方”を編み出していたので、同じパターンで役員決めをすることにした。
その役員決めシステムは、クラス委員長と応援委員が、「クラスで最もやりたくない仕事」であることが大前提になっている。この2つは誰も絶対にやりたがらない、だから・・・・・(これ以上を紙面で説明することは難しいのでやめる)
しかも、富士高校応援委員会は、(ほぼ)静岡県一の凄い応援団で、他の生徒たちからは、先生よりも厚い尊敬と畏敬と信頼を得ていた。そもそも、富士高の先生方は、集会も集合も校歌応援指導も応援団に任せきりだった。
ところがだ、ワタシのクラスの役員決めは、あっという間に終わってしまった。A君という生徒が、委員長に立候補し、I君という男が応援委員に立候補してくれたのだ。この2人が3年後に現役で東大に進学するのである。
秋葉 宏樹 (Hiroki Akiba) - マイポータル - researchmap
I君も、帝国重工(の本物)で、偉くなっている。
したがって、「なんちゃって政治経済」しか教えてこなかったワタシは、この富士高時代に徹底して教材研究をすることになる。毎朝、3時頃に起きて5時ごろまでパソコンに向かう日常は、この頃に作られた。また、富士高の職員室でも本ばかり読んでいる人間となった。
この「パソコン」と「教材研究」の2つがワタシを大きく変えていくことになるが、その話は次回ね。