還暦老人清水東編2
2024年4月30日 06:42
全国の毒舌ファンの皆様 おはようございます。Tommyセンセです。
ということで、やっと転勤した(日記上)。2013年春のことである。
その時に、一番先に連絡をくれたのは、八木監督である。八木監督はワタシのことを“腐れ縁”と表現する。
最初の腐れ縁は富士高校で一緒に担任をもったことだ。そして、3年生まで持ち上がった。3年生の時はワタシが1組で八木監督が2組。朝のSHRで、八木監督は「詳しいことは1組に聞け」と指示していた。でも、2組の連中は1組の教室掃除をよく手伝ってくれていた。3年の時の球技大会は、男子がラグビーのクラスマッチである。抽選の結果、我が1組は初戦で八木監督率いる2組とあたることになった。この二つのクラスは朝練からずっと一緒に練習してきた仲間達で、決勝であたることを誓い合っていたのだった。球技大会直前のある日、朝、グラウンドで出てみるとこんな雨にも関わらず練習しているグループがある。もしやと思い駆けつけてみると、スクラムの隣で笛を吹いていたのは八木監督だった。
1組の生徒は、八木監督を尊敬していたのだが、大切な初戦でそのような緩い気持ちがでると勝負にならない。ワタシは、対戦が決まった途端に、八木監督を、生徒の前でも“八木!!!!!”と呼び捨てにした。(このあたりで二人の器量の深さが測定される)
次の年から、ワタシは「センター試験に出る、カタカナ語&略語辞典」を冬休み前に生徒に配ることにした。自分として初めての「センター試験・公民」を担当してみて、「あっ、これはカタカナ語&略語の知識がモノをいうな」と思い、勇気を出して、10ページくらいのプリントを試作した。そして、その翌年、「センター試験・現代社会」において、ワタシのカタカナ語辞典から、20点ぐらいが出題された(ホントだよ)。特に、「エコマネー」(地域通貨の一種)という教科書には載っていない単語がでたことで、『カタカナ語辞典』の信頼度と口コミが一挙に高まり、「トミーぱみゅぱみゅ」とか「トミッキペディア」とか、「トミノミクス」とか名前に毎年腐心しながらの出版と配布を続けていた。これは、清水東高校の最晩年にWeb化され、永遠に残っている。
ア : トミッキルーペ (livedoor.blog)
(ア)から始まり、(ヲ)で終わるカタカナ語シリーズと(A)~(Z)で始まる略語シリーズがある。
A : トミッキルーペ (livedoor.blog)
お暇な皆さん。是非、連続で読んで下さい。頭が良くなりますよ。
このシリーズは、かれこれ15年ほど続いたのだけれど、これだけで偉大な先生(これは八木センセではなくてワタシのこと)だということがわかる。
この『カタカナ語辞典』をワタシは出来上がる度に、八木先生に贈っていた。
八木先生は、富士高で生徒課長をしばらくやられた後、母校清水東高校に帰任していた。先生にとっては待望の母校復帰であり、清水東高校野球部としての最高の名監督を迎えたことになる。実は、清水東高校は、ゴールデングラブ賞8回の名手、山下大輔さんの母校であり、選抜甲子園大会と夏の甲子園にそれぞれ2度出場している野球の名門高校である。今や、阪神の最強クローザーとなった岩崎優選手の出身校でもあるのだ。
そうやって、清水東高校に去ったあとも、冬が来ると電話くれて、「今年も楽しみにしているよ」と催促してくれた。八木先生には、結局、最後の号までお渡しすることになった。先生が、毎回毎回読んでくれたのかどうかは疑問である。性格と老眼ゆえ、きっと『カタカナ語辞典』本体は読んでいない。でも、ワタシには「親父が好きでね・・・・」とか「女房が読むから・・・」とか毎回言ってくれた。
八木監督がいたかこそ続いたともいえる。監督は、そういう人だ。
八木監督は、その電話口でこう言った。(清水東に転勤する前にかかってきた一本の電話から話が進んでいない)
「おお、外山。よく来てくれたなあ。俺はオマエの母校で11年間尽くしてきたのだから、今度は、オマエが俺の母校で11年間働いてくれよ」と言ってくれた。
なぜ、八木監督は、ワタシの残りの任期が11年であることを知っていたのだろう? そうワタシは49歳になっていた。
そして、加えて、
「頼むよ、清水東を救ってくれ」ともおっしゃった。(この「救ってくれ」の訴えには直ぐに気づくことになる。)
清水東に転勤するこは(自分にとって)目出度いことである。清水といっても我が家からは非常に近く、その気になれば20分で学校に行かれる。この転勤で一番困ったのは、部活動である。
ワタシは根っからの文化系人間で、スポーツの指導をしたことがない。スポーツに関してブログでもいろいろ蘊蓄を書いてはいるが、実際にやったことはそれほどない。体育館球技にいたってはルールも知らない。百人一首の世界に入る前は柔道をやっていて黒帯もある。しかし、こんあ危険な武道にいまさら携わる気もない。もちろん、ミュージック系の部活もダメだ。ワタシには音感もリズム感もない。ましてや百人一首部の顧問を20年もやっていたので、普通の運動部や文化部の流儀もわからない。
清水東で、何の顧問になるのだろう?と本当に心配していた。
ここで、暗躍してくれたのが、たぶん監督であろう(あくまでも想像の域をでない)。
なんと、ワタシは野球部の顧問になっていた。副々々顧問で、なんと野球部は4人の顧問を抱えることになったのだ。しかも、誰も兼任していない。もちろん、他の2人には野球の指導歴がある。しかもしかも残りの2人はワタシより年下で、バリバリの働き盛りである。はっきりいって学校としては贅沢だ。しかも、転勤の年、ワタシは某S岡高校野球部のことに忙しく、土日は清水東高校どころの騒ぎではない(ごめんなさい)。おそらく、中途半端な転勤ホヤホヤのワタシをごり押しして、野球部顧問に入れたのが監督さんなのだろう。
八木監督が、ワタシを顧問にしたかったのかどうかは判らない。そして、基本的にワタシは八木監督の指導には批判的でもあった(練習よりも座っている時間が長いとなね)。右も左も判らないワタシに居場所を与えてくれたのだろう。そして、その強引な顧問配置を認めさせたことも凄いと思う。
ワタシは、監督に救われた。
結果、清水東1年目は、3年部副担任、野球部副々々顧問のお気楽生活となった。
次の波乱をお楽しみに・・・・・