教育改革が上手くいかない理由
2020年8月5日 05:47
全国の毒舌ファンの皆様 おはようございます。Tommyセンセです。
ということで、昨日は某B社という日本最大の教育複合コングロマリットの模試部門に関して担当者のレクチャーをうける。
要するに、某S水東高校の前回のベネッセ共通テスト模試の出来はどうだったの?という勉強会。担当は若い入社2年目のナイスガイなのだが、なんと経歴は(小学生でも知っている)某有名国立大学。教育産業は、成長産業なのかも?
今回の共通テスト模試はコロナ禍の休校開け直後~1ヶ月以内に行われた模試だった。この時期、巷で話題になっていたのは、休校中の学習の遅れであって高校業界では、3年生になって集中的に授業が進む、理科と社会(地歴公民)が一番不安視されていた。今でも高校では、理社の遅れを取り戻そうとしてこの夏のクソ暑い中で授業を行っている。
ところが、この共通テスト模試で、各校間比較をした場合(こんな比較は某巨大教育コングロマリットでは簡単にできる)、共通テスト模試の得点で差が開いたのは理社ではなく、英数国の3科目だったのだ。つまり、1年生~2年生の学習の基礎となる部分で差がついているということ。当たり前だ。
学力というものは高校1年生と時にはほとんど差がないが、高校3年生ともなると相当な差になって表れる。したがって、全国一斉テスト(共通テストのような)の結果は、後ろに伸ばせば伸ばすほど大きな差になってくる。
幻想を抱いている高校生には申し訳ないけれど、高校1,2年の間に怠けた分は、3年になってある程度追いつくことは出来るが、追い越すことは絶対に出来ない。よく、「偏差値35からの〇〇大合格!!!!」というコマーシャルをうつ某株式会社系学習塾があるけれど、これは、もともとポテンシャルの高い生徒がたまたま偏差値35の時代があっただけで、すべての偏差値35の人間が〇〇大学に合格する訳ではないのだ。当たり前。
このように、我々の生息する教育界や受験界というのは、現実と妄想と幻想と儲け主義と怠惰と従順さとが複雑に混じり合っているので、どうしても誤解や曲解が多い。
これらの学習の頂点にいるはずの、文科省の役人や大学の先生群もそして、それを報道する人間達(受験界では、マスコミ以外にも受験メディアが存在する、〇雪時代などはその老舗)にも誤解が多い。
ワタシは、国が大きく旗を振った(2020迄になり遂げる)教育改革(高大接続改革)とコロナ禍の2年間を進路部長として仕事をしてきたので、今まで、相当な頭脳を使い相当に疲弊してきた。でも、少しずつ、そこに横たわる矛盾点なども理解できてきた。
例えばだ。
ここのサイトには、大学入学共通テストの導入による入試改革(高大接続改革)に関する端的な説明がある。別に、たまたまヒットしただけでこのようなサイトは山ほど存在する。
このサイトの中から、教育改革&高大接続改革(入試改革のこと)の概念図を取り出してみる。
普通に見ているだけだと、別になんの特徴もない、概念図である。どちらかというとよくまとまっているのでわかりやすい図である。
しかし、この図は大きな誤りがある。
高校時代において、この図の誤りを指摘することを教えるのは、おそらく「高校倫理」だろうが、高校生で「倫理」をまともに勉強するのは1%にも満たないだろうから、ほとんどが理解できないだろう。
この図の中で、「学力の3要素」が三角形のピラミッド構造として図示されている。これは、世間一般の人が考える構図だ。
まず、「土台となる知識技能」が学力の一番下にあり、その上に「思考力・判断力・表現力」が重なり、最後に、「主体性・多様性・協働性」という問題解決能力が頂点に鎮座している。
普通は誰もがこう思う。まずは、必要な「知識・技能」を身につけて、「思考力・判断力・表現力」が徐々に備わっていき、最後に問題解決のための「主体性・多様性・協働性」が身につく者だと考える。
しかし、この図の右側には、具体的な大学入試の構図が書かれていて、しかも全然ピラミッド構造になっていない。
つまり、大学入試とは、本来の「土台となる知識技能」「思考力・判断力・表現力」「主体性・協働性・多様性」をたった2ヶ月(大学入試の1月~2月)ですべてを瞬間に同時に問うのである。ここの、学習上の時間の概念は存在しない。すべてをいっぺんに問われるのであって、「知識技能の段階」とか「思考力の段階」「主体性の段階」などという積み重ねになっていないのだ。
その証拠が、日本の大学入試制の根幹をなす「合算」というシステムだ。
とにかく、日本の大学入試は、傾斜配点を用いる大学があるものの、すべでの入試科目の評価を、「合算」で行うのである。同時に、軽重をつけることなくフラットに、すべての問題の点数を合算するのである。
ここの、教育システムの「下部構造・上部構造」の理念は存在しない。たったひとつの知識の欠如が入試の合否に関わる。
これは、人間の選別(大学入試のこと)に関して、そうとう過酷で冷淡な仕組みであって、例えば
「思考力・判断力・表現力」の査定において優劣つけがたい人間を「知識技能の1点の差」で選別するのだ。
これが、本当に人間の評価として正しいとは思われない。
しかも、もっと恐ろしい大学入試システムもあって、
この概念図の中で一番上部に置かれる「主体性・協働生・多様性」などを中心に評価をするAO入試(総合選抜型)や推薦入試(学校推薦型)は、なんと!!!!!、入試シーズンの一番先(10月~11月)に行われるのだ。その人物が、同じ基準で「知識・技能」を身につけているかどうかをはかることなく行われる!!!!!!!!
これはまったく教育の構造とは逆の時間軸である。
おそらく、世間一般の人々は、「知識・技能」から「多様性・協働性」をしっかりと、ピラミッド構造として理解している。しかし、ワタシを含めて、受験産業界に巣くっている人種は、大学入試が「全部を合算する」ことを肌で感じ、その本能で生きている。
「思考力・判断力・表現力」の査定において優劣つけがたい人間を「知識技能の1点の差」で選別するのだ。
これが、大学入試なのだと、冷淡に割り切らないと、親も先生も生徒もやってられないのだよ。
ワタシは、高校生に生まれなくて本当によかった。
この歌が許される時代が懐かしい。