ノーマルビュー

アメリカ近代傑作短編集 2

2021年6月6日 21:35
高校生にもこのアメリカ近代傑作短編集を「原文の英語」で読ませたかった理由の一つは「アメリカ人の本質は南部にある」と考えるからである。
大学1年時の教養課程の英語読解演習で渡されたのが、フラナリ-・オコナ-という女流作家の「高く昇って一点へ」
(Everything That Must Rises Converge)だった。
彼女の作品は、アメリカ南部を舞台にした人種差別や暴力をグロテスクなまでに暴き出すことで、特異な位置を占めている。
静高の巻島先生が薦めてくれたH.ジェイムスの作品はアメリカとヨーロッパを行き来する上流階級のエリ-ト層が主人公の物語で、当時の高校生には「欧米上流階級の厳格な恋愛倫理観」など、ピントとこないのは当たり前だった。
それに比べてオコナ-の作品群は、生でむき出しの人間の本性を、目の前に突き付けていて、これぞ本当の文学だろうと痛感させる。
今、アメリカ国内に渦巻いている黒人虐待、人種差別への反対運動の根っこあるものは、「保守的アメリカ人の本質」に対する怒りといきどうりだ。


中3重要 今日夜9時のNHK特集「ヒト遺伝子ゲノム」を必ず見よう!!

2021年6月6日 17:25
中3はちょうど新星授業で、遺伝の単元をやっているので、今夜9時のNHK特集「ヒト遺伝子ゲノム」は必ず観る事!!
中学で学ぶ遺伝は最小限の内容で、今日やった「メンデルの法則」も実は例外事項がかなりある。
生物学の内容は変化が激しく「高校生物」の教科書に載っている内容は、年月とともに大きく変わる。
世代が違うと、高校生物で学んだ内容がかなり食い違っている。そこが物理や化学との大きな差だ。
塾長の時代の高校教科書に載っていた内容も「実はあれはでっち上げでフェイクでした」なんて例がいくつもあって面白い。
最大のフェイクは「ダーウィンの進化論」で、メンデルの遺伝法則とうまく組み合わされているので、嘘がなかなか見抜けない。
遺伝は「遺伝子だけが支配する」という間違った前提(あるいは意図的なまやかし)のせいで「獲得形質は遺伝しない」という間違いが長い間、定説となっていた。
その件は、また「生物の進化」の単元で説明する。
NHK総合テレビ以外にも、NHKBSでのシリ-ズ「ヒュ-マニエンス」は人体に関する新しい発見を紹介してくれて、大変に興味深い。


高校教育では今

著者: tommyjhon
2021年6月6日 05:41
全国の毒舌ファンの皆様 おはようございます。Tommyセンセです。

ということで、今日は日曜日。日曜の記事は断然ヒット数が少ないので、書いたら怒られそうなことを書いてしまいます。


ただ今、学校では「教科書の採択」なる行事が行われている。先生以外にはほとんど知られることがなく、各教科ごとにひっそりと行われている。高校地歴公民科の場合は、担当の先生がせいぜい3人程度(それでも、世界史の先生が3人もいる高校は相当な大規模高です)であるから、複数の先生方が数回集まってこここそ決める。


教科書って、出版業界では相当“美味しい商品”だ。 
1)必ず買う。
2)宣伝が必要ない
3)売り出す前に、必要部数が決まっている(在庫ゼロになる)



こういう「社会主義的商品」なので、文部科学省の指導は絶対に服従している。どの執筆者が書こうと文科省の意向に逆らうことは出来ない。多くの場合、先生方も生徒も教科書を信用しているので、結果的に全国一律で同じ事を教わることになる(どこ教科書会社も大体同じ)。
この「社会主義的商品」は、全国一律で同じ事を書けと統制されている代わりに、ある程度のシェアは保証され、絶対に在庫が出ないシステムなのだ。


したがって、その犠牲は現場の高校生が払うことになる。
内情はこうだ。
教科書会社は、その必要数を4月に生徒の手元に届けなければならない。
そのために、文部科学省は、その前年度中に必要部数を把握して教科書会社に連絡してあげている。
そのために、県内、市内の教育委員会はだいたい1月までに使用教科書と必要部数を文科省に報告しなければならない。
そのために、現場の高校は、だいたい11月までに、使用教科書と必要部数を教育委員会に報告しなければならない。
そのために、現場の生徒は、だいたい10月までに、自分が来年度にどの教科を選択するか決めなければならない。これは、多くの選択肢が存在する高校現場だけの現象ではある。
多くの県立普通科高校は、1年生で文理(文系か理系か)の選択をする。2年生では、その中での科目選択をする(理系では、化学・生物・物理を選び、文系では、日本史か世界史を選び、数学を選択するかしないかを選ぶ)。
そして、それは必ず9月なら10月に行われるのである。


本来ならば、次に何を選択するかなど、3月のギリギリまで迷っていい問題である。
一番ひどい日程なのは、文理選択をさせられる高校1年生であって、高校1年生の授業をまだ半分しか受けていないのにも関わらず、文理の選択を迫られるのだ。
本来、自分がその科目に向いているか向いていないのかに目覚めることが出来るのは、“難題”に出会った時であって、本当に頭脳を使って使って使い切るくらいの難問に出会わないと、“向き&不向き”はわからないものである。
高校生の9割は、自分が文系なのか理系なのかを前々から自覚しているが、残りの1割にとっては、相当辛いのだ。




また、同じような状況は、教育委員会内の人事でも起きる。
行政という仕事は、何でも予算ギリギリで行おうとするために、来年度に必要な教員数をあらかじめ決定しておく必要がある。したがって、教科書の採択と同時進行で、どの学校にどれくらいの教員が必要なのか?を調べるために、教科書と同じような書類(もっともっと複雑なものだはあるが)を11月頃に確定して提出しなければならない。
なので、我々現場は、余裕など一切無く、ギリギリの人材で授業とその他の業務をやらされる。


本来、生徒達のことを考えれば、多くの選択肢を教育現場が用意し、多くの選択を歓迎し、多様なニーズに合わせた学問を提供するべきなのだ。
ところが、現状は毎年毎年、どこの学校でも、カツカツの予算の中で火の車である。多様なニーズに合わせる余裕など全くない。
したがって、落ちこぼれの生徒につきあう余裕も全くない。同じように、“特筆するような才能”に付き合う余裕も全くない。
個人的には、授業について行けないので支援する必要のある生徒も大切だが、授業よりももっと高度なことに興味と関心を持ってしまったので支援する必要のある生徒、も大切だと思う。
ところが、このような生徒は一部を除いて確実に無視されている。


こういう国には、おそらく未来がない。
「教育は100年の計」とよく言われるそうだが、100年後の日本はどうなってるのかねえ。


















































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