昨日の夏季講習「歴史論述問題」で、「聖徳太子は実在の人物か」という塾長の話を、理解できましたか。
日本国の正式の歴史書「日本書紀」に彼の活躍の記述があるので、実在の人物として教科書も記述している。
それにも関わらず、その存在については疑問視する研究者が多い。聖徳太子が架空の人物だとすると、だれが、なぜ日本書紀に「架空の聖徳太子」を登場させたのか?
明治時代まで「皇太子の身分でありながら、天皇以上の実権を握って大事業を次々と行った人物」は2人しかいない。
一人は「聖徳太子」、そしてもう一人は「中大兄皇子」だ。
「中大兄皇子」は「大化の改新」後、すぐには天皇に即位しなかったが皇太子の身分ながら「白村江の戦い」に2万7千名もの日本兵を派遣するなど、強大な権限を行使した。
その前にも、「大化の改新」を実行し、公地公民をはじめとして中央集権国家の建設にまい進する。
さらに大宝律令養老律令を制定し「法治国家」としての体制を確立していく。
その間、「ただの皇太子」という身分のままだった。
そして、「大化の改新」後、なんと23年もたって、やっと「天智天皇」の名で天皇に即位する。
この異常に長い空白の理由は「不倫スキャンダル」であった。それもかなりきわどいスキャンダルだ。
日本書紀の作成は複数の記述者の手によるが、そのチームのリーダ-は「藤原不比等」である。
かれは養老律令の作成者でもあり「中大兄皇子と不比等の父である中臣鎌足」の側近として辣腕を振るう。
「ただの皇太子」でありながら、天皇以上の強大な権力を行使する「中大兄皇子」の正当性をどこかで証明する必要があった。
そこで「聖徳太子」という架空の人物を創造し(でっちあげ)日本書紀に登場させた。
聖徳太子が建てたとされる「法隆寺」も「中大兄皇子」が全面的な支援をして「聖徳太子」をまつってある。法隆寺の実質的な建立者も「中大兄皇子」ではなかったのか。
つまり明治維新まで「ただの皇太子」として天皇以上の活躍をした人物は「中大兄皇子」ただ一人だったという事になる。
なお、聖徳太子が「推古天皇の摂政」だったというのはどうでもいい事で、当時は「摂政」という地位も役職もなかった。藤原氏が務めた摂関家も、あくまで天皇の代理人であった。
この「摂政」が天皇の代理人ではなく「天皇そのもの」として登場するのが、大正時代になってからである。その話はまたいつか。
