「中身の薄い文章」を書く根本原因を分析しないと、対処法も打ち出せない。
原因をまず2つに大別する。
原因の①
技術論の欠落その1)
文章には基本形式があり、「起承転結」や「序破急」のような型をそもそも知らない。
そこで「書き方のお手本となるテキスト」をまずしっかり読むことを薦める。
書店に行けばレポ-トの書き方や小論文の書き方に関する「ノウハウ本」はいくつもある。
だが安直な「ノウハウ本」はすぐに姿を消してしまうので、昔からの定評のある本が良い。
一)「文章読本」(谷崎潤一郎)はやさしい文章で、良い文章とは何か、良い文章の書き方について分かりやすく説明してる。同じ「文章読本」という書名で他の有名作家、川端康成や三島由紀夫も書いている。読み比べてみると面白い。
二)「論文の書き方」(清水幾太郎)は、高校生の必読書と言われてきた。
やや硬い論説文調の文章を書くときには、参考になる。
このほかにもまだまだ、お手本はあるが、まずは手ごろなこの2冊を読んでみよう。
技術論の欠落その2)
文章は結論が先か、後かで「演繹法」的書き方と「帰納法」的書き方があり、学術論文の多くは「仮説を立てて」=「結論を先に述べて」からその結論に向けて論拠を組み立て行く。
「帰納法」は結論が確定していない段階で書き始め、書き進めるうちに方向がだんだん見えてくるので、結論を絞り込んでいく。書いている途中で「ヒラメキ」が浮かんで、最初の想定とは異なった結論になることも珍しくない。
どちらのスタイルで行くか初めに決めておく。
プロの小説家もこの2タイプがあり「夏目漱石」「芥川龍之介」「三島由紀夫」は、最初に結末ありきの前者だ。
一方、私の好きな「村上春樹」は長編小説では、結末がどうなるか書いてみないと解らないという後者だ。書いていて楽しいのは圧倒的に、後者だと感じる。
原因の②アイデアやテ-マが浮かばない発想力のなさ。
中身の濃い文章やレポ-トは「独創性」が高いと思われがちだが、実はいくつかの既存のアイデアをうまく組合わせているに過ぎない。
その組み合わせ方が、多彩で同じ手を使わないので、独創的だと思わせている。
最近亡くなった作曲家の筒美京平氏は天才的に美しい旋律を生み出したが、既存の洋楽を組み合わせて傑作を量産してきた。その陰で膨大な曲を黙々と一人聴く毎日だった。
作曲も、作文もアウトプットする以上の大量のインプットが前提となる。
つまり、ありとあらゆるジャンルの文章を、多読乱読することでアイデアのタネを片っ端から脳内に蓄積することが大事だ。空っぽの頭からは当然何も生まれない。
文章を書いている途中で次々とアイデアがひらめくときは、間違いなく傑作、名文が書ける。
自分では「閃いて」いるように感じるがそれは錯覚で、以前に仕込んだネタを思い出したに過ぎない。
ただネタ=アイデアを寝かしておいた期間が長かったので、熟成していたのだろう。
読書という思考訓練を数多く経験している生徒ほど、優れた文章が書ける。
読書は知的好奇心が動機となるが、常に新しいネタや話題を提供してくれる新聞は、手ごろなネタ元となる。
毎朝、新聞を読む習慣を着けるのも効果がある。朝刊を取らない家庭も増えているが、もったいない。
原因③作文は苦行、苦痛でしかない。
文章を書く楽しみを知らない。
音楽は聴いて楽しんでくれる人に聴かせるために作るもの、絵画は日々眺めて喜んでくれる人のために描くもの、文章は読んで共感してくれる人のために書くもの。
発表する場のない文章を書くのでは楽しいはずがない。共感する人がいてこそ良い文章が書ける。
良い文章を拾い上げてほめてくれる仲間や、教師が不可欠だ。
