村上春樹の言葉 小説を読む意味
朝日新聞4月2日の朝刊によれば、村上春樹が、早稲田大学文学部の入学式で、来賓として祝辞を述べた。
その中で彼は「心という未知の領域をどうやって探り当てればいいのか、その役割を果たしてくれるものの一つが小説であり、小説という働きを抜きにしては、社会は健やかに進んではいけない。社会にも心というものがあるから。」と述べている。
中学生や高校生には学校やクラス、部活という社会があり、それぞれの社会に心がある。
その生徒社会、学校社会の中で様々な葛藤や軋轢、喜怒哀楽が展開され、それをテーマにした児童文学や青少年小説というものがある。
高校入試ではこれらの「児童文学や青少年小説」を題材にして、入試問題を出すことが多い。
だが、そこで描かれる人間像は、道徳的な枠組みを決してはみ出すことのない無難な姿にとどまっている。
中学高校生の社会は、決して彼らの関係性だけで動く閉ざされた社会ではない。
生徒全員に家庭があり、保護者がいて、大人達から守られると同時に、その指示命令や強制にも常に曝らされている。
生徒の背後にいる大人の姿が色濃く反映するのが「子供社会」だ。
大人たちの事情が子供社会をも左右している。
大人との関係性を抜きにした「子供だけの世界の物語」などは、まさに「おとぎ話」の世界だ。
生徒を取り巻く大人達も千差万別で、すべてが「立派な大人」でもなければ「模範となる尊敬すべき大人」でもない。
ろくでもない両親や、無責任で無能な教師はゴロゴロいる。
以前にブログで紹介した宮本輝の「蛍川」と「泥の河」(2作とも筑摩書房の「蛍川」に収録)では、主人公の少年の目を通した大人たちの(その多くは両親)姿が描かれている。
少年の両親は決して褒められるような大人ではなく、彼の母親(宮本輝の母がモデル)はアルコ-ル中毒で、宮本輝は後に「当時は母親を心から軽蔑していた。」と書いている。
父親と言えば、事業を起こしてはつぶし、また起こしては投げ出すという事を繰り返していた。
挙句の果てに少年に借金の依頼に昔の知り合いのもとに、使いにやるというようなことまでやらせている。
少年が両親を見てどのように感じていたのか、その複雑な心境の原因を作った父と母の事情、貧困の中でも自分に愛情を注いでくれた両親の姿。善も悪もごちゃまぜになった大人の世界の真の姿。
このような小説こそ、教科書で全編をとりあげ、入試でも出題すべきである。
学校の中で頻発する「いじめ」や、今はやりの「学校カースト」も大人社会のゆがみがそのまま子供社会に反映している。
特に「いじめる側の立場から見た自分の両親や大人社会の姿とその影響」について書かれた小説を教科書は取り上げるべきだし、入試でも出題すべきなのである。
社会が健やかに進んでいくために、いじめを生み出す社会の心を、小説が探り当てていってこそ、初めて 小説は少年少女に読むべき価値を提供する。